五大アーケード・ゲームの日々



大学生や大学院生、大学の教員などは、基本的に自由業。自分で自分を律しなければ仕事は進みません。PSII やらドリキャスやら持っていては論文も書けるはずがない。昔で言えばファミコンやらPCエンジンなどもってのほか。そういうわけで、私は藤波辰巳がドラゴン・スープレックス・ホールドを自ら封印したように、学部学生時代から自宅でのゲームを自らに禁じております。『ウルティマIV』でも懲りたし(詳しくは裏ページの「パソコン履歴」を見てね)。

そのかわり、というわけではないけど、なぜかはまったのがゲーセン。そう、あのいかがわしいゲームセンターです。そこにおいてあるのがアーケードゲーム。パチンコも競馬も競輪も、スマートボールも雀球もテレビ雀球もゴルフもやらないにもかかわらず、かつて熱中してしまったゲーセン。ゲーセンの都、池袋に長いあいだ住んでいたのも意味は大きいな。なんの意味かよくわからんが。アパートから歩いて3分くらいでサンシャイン60のなかの巨大なゲーセンに行けたもんなあ。

ただ、ゲーセンって、ファミコンなどと違って歯止めはかかります。なんつっても一回100円。高いでしょ。それに営業時間。風営法がゲーセンにも適用されるようになってから、夜の12時まわったらゲーセンも閉店になって、客は追い出されていました。そういうわけで、24時間のべつまくなし状態というわけではなかったですね。

それに「ゲーセンのゲームだったらなんでもええわいっ」というわけでもなかった。なぜかいろいろと面倒なことが人生のなかに積もってきて、なぜかてめえの日常がうざったくなってきたとき、なぜか気にかかるゲームが出現し、なぜかその前に座っている自分を発見すると。そのゲームの数、たったの五つ。でもこの五つにはある時期の自分の人生をぶちこんでたなあ。そりゃあ、その昔は私も普通のガキだったんで、「スペース・インベーダー」とか「ゼビウス」にも、ちったあ熱中しましたよ。でもそんなもん、この五つのゲームに使った金に比べると駄菓子銭。そんでその五つというのは、

  1. ハングオン
  2. 奇々怪々
  3. R−TYPE
  4. チェルノブ
  5. バーチャファイター

でございました。今後、私がゲーセンにはまることは(恐らくは)もうないだろうけれど、なんだったんだろうなあ、あれらの日々は(嘆息)。というわけで、以下、「酒と薔薇とゲームの日々」を思いだしがてら、ゲーム解説。人間、如何にして人格崩壊の危機から脱出するか。さあ、明日はどっちだ。


1985年
ハングオン セガ
100円硬貨 推定投入枚数 400枚

いろいろあったのよ。学部学生の最後。留年して5年生になって。大学院を受験するか、そのままどっかに就職するかって頃。そうした将来への不安定さに加えて、わけのわからん人間関係にはまりこんでいたんですね。卒業単位はもう取り終わっていたんで時間もたくさんあった。ちょっとは大学院の受験勉強もしてた。兄が出張で東京にきたとき、ときどきいっしょにゲーセンにも行くようになっておりました。

ある雨の夕方、その兄と新宿歌舞伎町のゲーセンに行きました。そしたら、でかい赤いバイクがそこに置いてあんのね。よく見たらこれがゲーム。普通のバイクならスピードメーターなんかがあるところに10インチくらいのディスプレイがあって、バイクにまたがってそのディスプレイをみながら、アクセルふかしてブレーキかけて、左右にバイクを揺すって画面の中の道をひたすら走ると。コーナーリングなんかに失敗すると画面の中が大クラッシュ。バイクぶっとんで、プレイヤーは画面の中で路上に放り出されとったなあ。最初にやったとき、このクラッシュ感に大笑いしてしまったけれど、この感覚にはまった。途中で夜の高速を走るシーンになるんだけれど、そのシーンも好きだった。

俗に言う「体感ゲーム」のはしりみたいなもんですね。はしりどころか正確にはセガのこのゲーム筐体こそが世界初かな。ただ、バイクレーシング・ゲームというけど、やっぱりあのクラッシュを見たくて乗ってたような気もする。それにしてもよく乗った。特に池袋のブランズウィック・スポーツガーデン(ちょっと大きめのボーリング場ですな)の入り口においてあったやつ。あの頃、あそこではビリヤードもよくやったけど、その待ち時間には必ずハングオンに乗っていた。100円玉を10枚も浪費したら、誰でもクラッシュもせずクリアできるようになるんだれど、そうなると今度はタイムを競うのよ。燃えたなあ。ちなみに、これは体感ゲームだから、デビュー直後は1回200円だったと思う。金も阿呆のように使った。

その後、この手の体感ゲームは「スペースハリアー」「アウトラン」「アフターバーナー」などと続き、「スーパーハングオン」というものも出た。でも、この初代「ハングオン」以外はほとんどやりませんでした。

結局、このゲームをやりたおしているうちに暑かった1985年の夏も終わり、錯綜した人間関係も一応の終焉(っていうんだろうなあ、あれは)をみせた。そして秋の終わりに大学院を受験すると。受験勉強もしたけど、遊んでいるときはだいたいこのゲームをしていたんじゃないか。派手にクラッシュしても、ハイスコアを出しても、どっちにしても充実感はありました。本当の生の充実感なんて誰もわからないだろうけれど、このゲームをやっているときには、そういう精神状態のかけらみたいなのがあるような気がした。はたから見たらゲーセンのバイクのおもちゃに乗って遊んでるんだから馬鹿みたい、っていうより100パーセント馬鹿だよ。でも、よく乗った。

しかしこんな文章書きながら思い出すと、このゲームを一人でやったことはないなあ。いつも誰かとやってた。恥ずかしかったからかもしれないけど、もっと別の理由もあるような気がする。考えたくない理由だけど。

ちなみに、この「ハングオン」、セガ AM2 研の鈴木裕の製作だそうです。後の「バーチャファイター」も彼の設計でしょう。ということは、この人がいなければ、僕の人生はかなり変わっていたってことかなあ。つるかめつるかめ。


1986年
奇々怪々 タイトー
100円硬貨 推定投入枚数 200枚

大学院に入ってはみたものの<(c)小津安二郎(嘘)>、なんかだらだらと日常を送っとったのですね。修士論文の締切りまでは時間があったし、大学院の授業のなかには受講する意義を(少なくとも僕は)見つけられないものもあったし。私生活は荒れてはいなかったが、そのたゆたう感じのために、妙に自分としては落ち着かない毎日だと感じていたのかもしれない。簡単に言うと、だらけていたんですね。大学院を修士課程でやめてすっぱりと就職するのか、それとも博士課程に進むのか。そこをすぐに決めきれなかった私が阿呆でした。うだうだした日常のなか、ふと通りかかったゲーセンの画面のなかでは懸命に巫女さんが化け物を退治しておったと。

というわけで、これはタイトーのアクションゲーム。主人公をやってる巫女さんの名前は「小夜ちゃん」というそうだが、そんなことはどうでもよろしい。寺や神社を歩き回りながら、いろんな敵に立ち向かって行く巫女さん。それを少し上から見下ろす画面が上下左右にスクロール。基本的なウェポンは黄色いお札を敵に投げつけるか、四手のついた棒(なんて言うんだったか? 知っている人、教えてください)で敵をぶちなぐるか。画面全体の敵を一時的に動けなくするスペシャルが水晶玉。最初は3個持ってるのかな。ところどころに隠れている赤いお札や青いお札を取るとパワーアップ。飛んでいくお札が大きくなったり、速くなったり。水晶玉もときどき隠れています。敵は唐傘や一つ目小僧など。ほんとうにうじゃうじゃ出てきます。彼らもいろんなものを投げつけて来たりしますが、自分から飛んでくるものも。当然、その敵に触れてもアウト。唐傘は直線で跳んできたんでそれほど恐くはなかったが、変則的な動きをする魚みたいな奴が嫌だったなあ。

各画面の最後には狭い空間でのボスキャラとの対決が待っています。これが強い。最初やったときなんか、一人目のボスキャラに勝てるはずがないと思ったもんなあ。それがまあ、こういうゲームの常、百円玉を湯水のように浪費しているうちに、こっちの腕も上がります。しかし、当時のゲームにはまだコンティニュー機能がないものが多かった。このゲームの場合は3回(かな?)やられたら、また百円を入れて最初からやりなおし。緊張感をどこまで持続させることができるかが勝負だっ。

とにかくきつかったこのゲーム。当時のことを思い出すと、このゲームに燃えた理由はもうひとつあって、それはそれでその頃の僕にとってはとても重要なことだったのだけれど、それは書かない。すべてをさらすのがウェブページでもないしね。


1987年
R−TYPE アイレム
100円硬貨 推定投入枚数 300枚

あれはなんだったんだろうか。R−TYPEに没頭した日々は。あのゲームの前に座った自分をこうして振り返る人も少なくはあるまい……と気障に書いてしまうほどである。ゲームなんて、みんなそうかもしれないけどさっ。このゲームにのめりこんでいったのには、はっきり言って外部的な理由はない。人生に悩んでいたわけでもなし。極端に暇だったということもない。ただただ、このゲームがよくできたということだけでしょう。音、画面、ゲーム・バランス、システム。すべてがよくできていたと思う。ギーガー・タッチのポスターも良かったす。アイレムと言えば『ロードランナー』でしょうが、私としては断然これ。

横スクロールのシューティング・アクション。「異形生物」あふれる世界を宇宙船みたいなのが左から右に飛んでいく。その宇宙船につくオプションをフォースって言ってたと思う。そのフォースが本体にくっついているときは、何種類かの武器として使用できるようになっていて、画面にときどき出てくる「色ガラス」みたいなものに触れると武器の種類が変更されると。そのフォースは本体から切り離して飛ばして使うことも可能でした。このアイデアにはちょっとびっくりした。本体が生きている限りフォースはどこに飛ばしても無敵。どこにいても、どんなことがあっても死なない。ああ、「無敵」って良い言葉だなあ、ゲーマーにとっては。

溜め撃ちの「波動砲」も素敵。やっぱり今考えると斬新なアイディアが詰まってたんでしょう。

全8面。どの面もすばらしい。腕だめしの1面。うにょうにょと蛇の骨みたいなのが出てきて、ボスキャラはブルトン(『ウルトラQ』ね)みたいな2面。巨大戦艦が出てくるだけの3面。でも、この戦艦は本当にでかかった。早く通りぬけないと画面が敵の卵で埋め尽くされてしまう4面。上下が草むらみたいになっていて、突然そこから敵が出てくる5面。コンテナの罠、6面。どこが壊れているのかわからん7面。ちょっと画面がトラウマ系の8面。それぞれの画面によって、有利なフォースと、ほとんど役に立たないフォースがあるんだよなあ。だから、「色ガラス」にまちがって触れてしまって、えらいつらいことになったりもします。同じ画面のなかでも前半と後半で使い分ける必要があったり。状況ごとにコンセプトがはっきりしていました。そんなところが、とことんのめりこんだ理由かなあ。

などと、えらそーに誉めているけど、正直言って私はゲーム・クリアできませんでした。7面まではクリアして8面の前半を見たことが1回あるだけ。ごめんなさい。むずかしいのよ。なんとか6面まで行けるようになったけど、いつも7面で憤死していた。でも、このゲームをやってるとギャラリーが後ろにつくようにはなりましたですね。

よく憶えているのは、板橋の帝京大学病院に入院した友人(米田、お前のことだ)を見舞ったあと、十条か板橋の駅前でやってたときかなあ。どんより曇った夕方、駅前商店街の狭苦しいゲーセン。その日は調子よくすかすか行っていて、かなりの面をクリアーしていたら、ずっと後ろで見ていた子供が「すげー」と言った、その声のかすれ具合と単調さが妙に恐かった。

後になってこのゲームは前半、後半に分けてPCエンジンに移植されました。このゲームで闘うためにPCエンジンを買った人も多いことでしょう。私の兄もそうだと思う。実家で少しPCエンジン版をやったけど、やっぱ金を使わないと緊張感がねえ。


1988年
チェルノブ データイースト
100円硬貨 推定投入枚数 500枚

1986年4月26日、ヨーロッパから見れば「極東」の島国に住む私は、大学院修士課程1年目のゴールデンウィークを前にして東京でのお気楽な日々を送っていた。その日、遠くソ連邦ウクライナ共和国の北辺に位置するチェルノブイリ原子力発電所において、人類の原子力開発史上、最悪の大事故が発生したことなど、のほほんとした生活に浸る私は知る由もなかった。

それから2年。修士論文もなんとか書き上げ、博士課程に入っていた私はいっそうお気楽な日々を送るようになっていた。そんなある日、ゲーセンに立ち寄ってみると、その片隅のディスプレイにソ連邦のマークが赤く光っていた。さらにその下には「ATOMIC RUNNER CHELNOV ―戦う人間発電所―」の文字が浮かび上がっていた……

ちょっとここまでの文章、チェルノブ本体の説明文を真似てみました。ま、そういうことで、これこそがデータイースト製作の記念碑的ゲーム「チェルノブ」だったんですね。後に「デコゲー」と呼ばれる、特異でカルトなゲームの数々を作り出したデータイースト。その最初期の名作です。ウエブ上ではやたら「伝説」という表現が用いられているようです。これは他の有名なゲームほどみんなが遊んだわけではないけれど、はまった人は完全にはまりまくったということではないでしょうか。

不幸な原発事故の後遺症で超人となった炭坑労働者チェルノブが主人公。後遺症で超人になるってのもすごいが、そいつが悪に敢然と立ち向かうってものすごい。そんな男の怒りと悲しみのゲーム。敵の名前がデスタリアンってのもチープで良い。

でも、このゲームの本当の価値はその不条理な設定よりも、やはりゲームルール自体の斬新さにあったんじゃないか。8方向レバーと3個のボタンを使う横スクロールのアクション・シューティング。チェルノブはとにかく右方向に走りつづける。文字通り、死ぬまで立ち止まることが許されてないという、涙なしでは遊べない設定。

さらには当然左からも敵が追いかけてくるから、そんなときには「方向転換ボタン」で左方向に向きなおらなければ殺されてしまう。つまりそんなときには左方向の敵をやっつけながら、右方向へ「後ろ向きに」走りつづけるわけですね。立ち止まってても画面は動きつづけるし。この左右の方向転換システム(というほどおおげさなものじゃないが)になれるまで、おそらく数十個の百円玉がスリットの中に消えていったことだろう。

使用武器も鎖鎌やら手裏剣やらと、とても変。全部で6種かな。誘導ミサイルみたいな普通のものがあるかと思うと、その名前が「赤城山ミサイル」。なんざんしょ。いまでもなんであれが「赤城山ミサイル」なのかわかりまへん。知ってる人、誰か教えてください。ジャンプしたあと相手を真上から踏みつけてやっつけることも可という、当時は珍しい技もあった。パワーアップのシステムも、正確なところはよくわからなかった。アイテムの名前も変で「円高コイン」「ドル安コイン」などと命名されていたが、いったいどんな効能があったのか。

敵のキャラクターも変なのばっか。巨大な遮光器土偶やら、つるつるしてて気持ち悪いドラゴンやら、みんなでかくて不気味なんだよなあ。思い出したくもないぜ。懐かしいけど。

他のゲームに比べると、人間が主人公のアクションゲームとしてはチェルノブ本人が小さい。だから画面の中の敵も大きく見えたんだろう。でも、走るチェルノブの動きはとても滑らかで美しく、それを見ているだけでも飽きなかった。自分に死が訪れるまで、ひたすら美しく走りつづける。かっこいいよなあ。敵が怒涛のように攻めてきていたから、見とれている場合じゃなかったけど。

なにか私生活にもめごとがあったわけでもなく、人生の大きな転換期というほどでもなかったのに、このチェルノブにはまったのは、やはりゲームとしての出来の良さかなあ。でも大学院のころってのも、それはそれで出口のない時期だったような気はしますね。

ついでに言えば、後にマレーシアを旅行したとき、クアラルンプールのゲーセンでこの『チェルノブ』を見つけました。久しぶりにかつての友人に再会したような喜びですね。ま、余裕でマレーの少年たちに己が実力をみせつけてやりましたです。阿呆みたいですね。


1993年
バーチャファイター セガ
100円硬貨 推定投入枚数 1200枚
25セント硬貨 推定投入枚数 140枚

その昔、横浜の日ノ出町駅前に「だるま」という串焼き屋がありました。今もあるかもしれない。小さなコの字のカウンターだけ。12人くらいしか入れない。浮世離れした店で、良いものしか出さない。すべての肉は客の目の前で巨大な塊から切り出され、すぐに串にさされて焼かれる。メニューなし。店主が出してくるものを食うだけだが、どれも信じられないくらいうまかった。その店主の人格も良。偉そうなところ皆無。酒も良いものしかおいてない。串焼き屋にしてはいくぶん高いかもしれないが、それだけのことはある。1994年2月末だったか、そこに僕、僕の兄(公務員)、僕の友人(韓国文化=ラテン音楽=バックミンスター・フラー=趣味の園芸専門編集者)、その友人の友人(海洋汚染研究者、彼がこの店の常連だった)の4人で行くことになったですよ。不思議な面子ですが、まあそういうことも人生ではよくあることです。

そんで、牛・鶏・豚・鴨・羊の串焼きをしこたま(トータル2頭と15羽ほど)喰らい、長距離走者に用意された水のように日本酒を飲み、わけのわからん会話をし、うわはははと笑い、勘定すませて(一人5000円だった)桜木町に向かいます。途中でもう1軒はしご。さらにタンメン食って、もうじゅうぶんのはずが、このまま帰るのもなあ……ということで駅前のゲーセンへ。そのゲーセンに一台置いてあった『バーチャファイター』の前に座る。対戦格闘ゲームですからね。だいたいは見も知らぬ人と(ゲームのなかで)殴りあうわけですよ。

そんで僕らが行ったとき、コート着たサラリーマンのグループがやっていて、その彼らを相手に軽い気持ちでやり始めました。たまたま実力が近かったんでしょう。まず、こっちが1勝、つぎにむこうが1勝という感じ。でもだんだん相手も燃えてきて、僕ら兄弟と激しく闘うようになってきたんですね。いっしょに飲んでた僕の友人ら二人は「ほほー」とか言いつつ横で見てました。むこうのグループの誰かが負けるとすぐに別の人が百円ぶち込む。こちらも僕が負けたら、すぐに兄が別キャラで闘ってみるとか。でも荒れた感じじゃなく、「うわ、ここでそうくるかあ」などと笑いあいながら、双方とも無邪気に盛り上がっていました。そうしたしゃかりきの激闘がおそらくは合わせて100枚以上の百円玉がスロットに意味もなく消えていくあいだ続きました。そんで最後の最後、むこうの誰が来てもなんとか僕ら兄弟が勝つようになった。もうお互い疲労困憊。くたくた。終電の時間も近い。さあ、帰るかというとき、むこうのグループの一人が僕らに言ったこと……

……あしたの晩もここで闘ってますか?

「闘ってません。僕は池袋に住んでます。兄は出張で東京に来ただけです。でも遊んでいただいて本当にありがとうございました。楽しかったです」と僕は彼らに言って明るく別れたような気がする。

そういうゲームです、これは。やったことのある人はわかるでしょうが、これはゲームの共同体をつくっていた。当時、日本のなかには『バーチャファイター』をする人としない人、その2種類の人間のコミュニティが形成されていたと思う。

『チェルノブ』以降、面白いと思うゲームはなかった。けっこうはやっていた『ストリート・ファイター2』、いわゆる「すとつー」もあんまり面白いと思わなかった。ところがこの1993年デビューの3DポリゴンCGの対戦挌闘ゲーム。画面見たときも驚いたけれど、その動き方、勝ち負けのコンセプト、キャラクターの造型。すべてにびっくりしました。

操作はパンチ・キック・ガードの3つボタンと8方向レバー。この単純な操作であれだけ複雑な攻防を可能にしたセガ「AM2」研は本当に稀有な才能を見せたと思う。当時はもう「ソフト2研」になっていたのかな。

それぞれの技も、プロレスファンや格闘技ファンの「技」に対する嗜好といかこだわりというかオタッキーな知恵というか、とにかくそのファン気質の本当に微妙な綾に対応していた。ジャーマンスープレックス、エルボードロップ、フロントネックチャンスリー、サンダーファイヤーパワーボム。しまいにはジャイアントスイングまで。それらをキャラクターたちは想像以上にきれいにくりだす。

プロレス技以外もいろいろ。空手家の日本人のお兄さんの技は裡門頂肘、鉄山靠、心意把とか。特に中国のカンフー親子がくりだす技は名前がかっこいい。連環転身掃脚、鳳凰槍掌、転身穿肘撃、転身爪巴掌、天地頭落、空烈天鳳。

そんな技の名前やキャラクターへの愛着も含めて、あるコミュニティが本当に形成されていたんじゃないだろうか。いろんな意味で画期的なゲームだった。

画面も今から考えればお弁当箱みたいな顔したジェフリーとか変なんだけれど、それでもどうしても嫌いになれないキャラクター群。それもたった8人。キャラクターの数がどんどん増えはじめていた当時のほかの格闘ゲームに比べればすごく少ない。

しかしそれらの8人が繰り出す技は複雑多岐。単純に勝たしてもらえない。複数の技が連続でかかるコンビネーション。プレイヤーは「コンボ」と呼んでました。返し技まで。パンチを受けての小手返しやら、ミドル・キックを受けてのドラゴン・スクリューやら(あれはVF2か?)。そもそもどんな技があるのか、その全体像もわからない。そういうときに、たまたまぶちあたったのが黎明期のパソコン通信。黎明期というには遅いかもしれないけれど、いまみたいにウエブページの乱舞ではなく、ニフティ・サーブのような会員制ネットが中心。当然画面は文字だけ。内容もフォーラム中心。そのなかにゲーム・フォーラムが。僕もときどき覗いていました。

そのパソコン通信も「VFコミュニティ」の形成に大きく寄与したんですね。そういうコミュニティは有名人も作り出します。池袋ラウ、新宿サラ、横浜ジャッキーといった人たち。ラウというキャラクターを使う「えらヅヨ」の人が池袋東口のどこそこゲーセンにいる、とかいうことがすぐにニフティのフォーラムで書かれるわけですね。ときには僕もそういう人たちと闘うことにもなりました。いやあ、つよかったす。人間、上には上があるということを知るべきです。

人間相手じゃなくて、コンピューター相手に一人でやってると、8人のキャラを相手に闘うことになります。だんだん強くなってきますが、全員やっつけると Dural っていうジュラルミンでできたような全身銀色に反射しているぬっぺらぼーのお人形さんがでてきます。なんか変な奴だなあと思いつつ闘ってみると、これも「えらヅヨ」。最初に出くわしたときなんぞ、相手に近づいただけで殴られ蹴られ投げ飛ばされ……と、ほとんど山本小鉄とのデビュー戦での前田日明(当時は「前田明」、ちなみに会場は長岡市厚生会館)のようで、10秒程度で惨敗。でもまた百円玉を湯水のようにスロットに流し込むにつれ、その Dural にも勝てるようになるんだから、人間なにごとも精進です(阿呆)。

そんなこんなでいろいろありますが、すごく懐かしい横浜桜木町の夜の一ヵ月後、それまで2年間勤めた助手生活が終わり、4月から僕は非常勤講師の生活に入りました。7月までいくつかの大学で政治学を教え、その後シカゴに引っ越します。

そのシカゴへ行く前日、東池袋の5畳半のアパートをなんとか引き払い、夏の東京、灼熱のなか引越しを手伝ってくれた友人や学生さんたちと夜は大宴会になりました。その日も兄が出張で東京に来ていて合流し、焼肉屋に行ってお礼がてらの宴席がはじまり、途中参加の人たちもあり、けっこう人数が増えてきてなんかすごいことになりました。夜も遅くなってきて11時くらいに女子学生をみんな帰し、残った友人、男子学生で2次会へ。そしたらその学生のなかにも「ファイター」がいて、またもや激闘が展開されたのでした。2次会と3次会のあいだにゲーセンに行ったんだったかなあ。あの晩も楽しかったなあ。あのとき手伝ってくれた学生さんたち、本当にありがとうございました。

で、ここで唐突に自慢してしまいますが、僕はアメリカで『バーチャファイター』をやって負けたことは一度しかありません。このシカゴへの引越し前、一度アパートなどを決めるため、3月に3週間ほどアメリカに行ってます。そのとき初めてニューヨークに行ったのですが、ブロードウェイのゲーセンでこのゲームを発見してしまったんですね。「ああ、アメリカにもコミュニティがあったか」って感じです。でも最初にやったとき、どうも日本のものとちょっと違う気がして身長2メートルくらいのアフリカ系アメリカ人のお兄さん(ゲームのなかのジェフリーより強そうに見えた)にあっさり負けました。これが屈辱で数十分のあいだ一人で練習し、ボタンなどを確認しました。それ以降、けっこうアメリカのいろんなところでこのゲームをやってます。シカゴ、ノース・サイドのバー、ミシガン湖の桟橋の上のビア・バー、フィラデルフィアの巨大なゲーセン、サンフランシスコのワイン・バー。が、負けたことはありません。へへんっ(大馬鹿)。ちなみに、本当の喧嘩になったこともありません。

この作品(とあえて呼ぶが)以降、血沸き肉踊るゲームには出会っていません。でもそれはゲームのほうの問題ではなく、僕の精神のほうの問題なんでしょう。そんなに大げさにいうほどのものでもないですが。大学の助手から、非常勤講師、海外での研究員という自分の生活の変化と、その変化の中でなんとなく考えざるをえなかった世間との関係そのものが、このゲームに走らせたのかなあと今となっては考えたりもします。でも、どうしてそれ以降、ゲーセンにまったく行かなくなったのか、こっちはまったくわかりません。考えれば何かそれらしい理由も見つけられるような気もしますが、それもまた何かむなしい答えしか出てこない気配もあるし。諸行無常です。


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