2011年に見た映画
「純白の野心は、やがて漆黒の狂気に変わる…」。これが公式コピー。もっとまじめに読んでおけばよかった。アカデミーやゴールデン・グローブの主演女優を取ったと聞いていたので、「普通の映画」だと思っておりました。つまりニューヨーク・シティバレエ(NYCB)の内幕ものに主人公の苦悩と狂気が混じるような話かなあ、と。チャイコフスキーの「白鳥の湖」のプリマとして、白鳥と黒鳥を同時に演じる難しさに直面し、それを可憐と官能のバランスをとりながら狂気一歩手前で乗り切るヒロイン……とか思っとったわけですよ。そこにNYCB内の人間模様とか、ライバルとの競争とか、芸術監督との恋愛とか、本人の成長にともなう葛藤とか絡んでくると。しかしそれらはすべてバレエ漫画世代の日本人の勝手な思いこみでした。
で、見てみたら「壊れ系主人公」の典型的サイコ・ホラー。ほんとに典型的すぎて、次がどんどんわかります。主人公の狂気の原因も、白鳥と黒鳥を演じるプレッシャーなどではなく、母子癒着と性欲。このよくあるネタが「適当に」混じって壊れていくという話。簡単に言うと、『キャリー』。むこうは豚の血と超能力だけど、こっちは本人の血とバレエの技巧。
で、ホラーとして『キャリー』くらい面白ければいいのですが、だめ。映画としての最大の敗因は主人公が壊れていることを最初の方で見せてしまったことでしょう。そこからあとはどんなシーンや台詞が出てきても、「あ、これは本人の妄想だ」とこっちが思ってしまうので、まったく恐くありません。それどころか、主人公と同様に現実と妄想のあいだの違いがわからないような演出にしているので、映画全体がもうどうでもよくなってきます。監督のダーレン・アロノフスキーも「虚実混交」とか狙ったのでしょうが、映画手法としては失敗。嘘とわかってこっちはお金を払って座ってんだから。嘘のなかの「嘘と本当」は正確に描きわけてもらいたい。
それから新人監督ではよくあることですが、前作の『レスラー』とほぼ同じ展開。むこうはダイビング・ボディ・プレスだけど、こっちはグラン・パ・ド・トゥ。両作未見の方のために細かいところは伏すけれど、あるところでは本当にまったく同じシーンも出ます。好きなんでしょうねえ、ああいう流れが。監督本人のインタビューではこの2本はセットとして撮ったそうですが、でもここまでそっくりにしなくてもねえ。見る方はそんなことまで考えないんだし。特にバレエとプロレスのセットですよ。たまたま両方とも好きな自分を恥じいる気分です。
きつかったけど良い映画でした。たぶん多くの方と同じように、監督がロドリゴ・ガルシアで製作総指揮がアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥなので観に行きました。それが理由で行った人には予想どおりの「きつさ」だったと思います。それに加えてナオミ・ワッツとアネット・ベニングの演技がすごいので「きつさ倍増」。どうか堪能してもらいたい。話はイニャリトゥとガルシアのこれまでの路線の王道。人間関係と親子関係が時間と空間の変化のなかでぐじゃぐじゃになります。ラスト近辺にちょっと違和感もあるものの、僕はこの寓話は肯定したい。
ちなみに、この映画を観る前に流れた予告編の日本映画のラインナップは、
1.小汚い犬とガキが雪山の中を走って死にそうになる
2.不治の病の老人が小汚い犬と日本中を車で旅行する
3.小汚い豚を飼っている娘が過疎の山村を元気にする
4.不治の病の女が死んで恋人の小汚いお兄さんが泣く
というようなものでした。漫画が原作でないのは一本だけでした。さだまさし、平井堅といった人たちが主題歌を担当してましたが、はっきりいってどの映画の主題歌もまったく同じに聞こえるゴミのようなもの(というよりはゴミそのもの)でした。
イニャリトゥのような映画ばかり作れとは言わないし、言うつもりもない。でも15年前に『タンク・ガール』のジェット・ガールを演じたナオミ・ワッツが、今にいたってこうした役を演じてるんだから。日本映画界、まじめに考えている人もいるのでしょうが、こうなってしまうというのはやはり仕組み、構造、制度、組織に致命的な問題があるんじゃないかなあ。あ、念のためにいうけど『タンク・ガール』、楽しい映画だし、ワッツも好演してます。