2008年に見た映画
アンデルセンの『人魚姫』から宗教的(キリスト教的?)なところをぜんぶ取り除いて、それを宮崎駿が手書きで動かしてみたら、かえって終末論(黙示録?)の気配しか残りませんでした、という作品。それが良い作品になっているんだから、たいしたもんである。表現のレベルとしてはとんでもないところに行っていると思う。最初から最後まで飽きることのない画面。人間の子供、老人からバケモンまでの、ありとあらゆるキャラクターの造形と動き。背景の色。建物のドアの音。当然、大きくうねる夜の海の波濤も。その動き音、色まで。それらがすべて印象深い。
こうした表現を前にすると、ストーリーなんかどうでもいいと思えてくるし、実際ストーリーの細かいところにつっこみを入れるほうが何かまちがっているんじゃないかと思えてくる。ストーリーの破綻によって生じる感興もある……か? ある人の評に「海に住むポニョを水道水のバケツに入れるな」という(まじな)批判があったけれど、そういう視点で見る映画なのか、これは。
とんでもない技術と手間に裏打ちされた、とても良心的な「子どもだまし」を見せてもらったような気がする。おそれ入谷の鬼子母神。
と誉めてますが、ほんとのところは、あの最初の惨劇でみんな死んでる、と思うのが普通の反応だと思う。だから映画の最初から最後までなにか不穏な気配というか、見る側に不安定な気分がただよう。世界の崩壊というか。ところが、それを最後の最後、いっきに吹っ飛ばすあの楽曲。「ぽーにょぽーにょぽにょ、さかなのこっ」。これに完全にやられてしまった。
ベネチアでの審査委員長だったヴィム・ヴェンダースは「この作品に金獅子をあげることはできなかったが、この主題歌は私の頭に一生残る」というようなことを言っていたが、みんな思うことは一緒なんですね。
それから、もう一点。表現としてはすごい、とも書きましたが、いくつかの点がジブリの宮崎作品にしては雑になってないか。ストーリーの破綻とかそういうことではなくて、キャラクターの動きとか、セリフのちょっとしたところとか。そういうことを考えると、海の魚を水道水につっこむようなことは、たしかに以前の宮崎作品ではなかったよなあとも思う。
この3本を続けてみたのは別に理由はない(わけではない)けれど、とてもそれぞれに対照的な作品。できを比べてみると、「アイアンマン」「ハルク」の二作がとても面白く、「ダークナイト」はまったく盛り上がらないまま静かに沈んでいきました。そのいちばん大きな理由(というほどのものじゃないかもしれませんが)は、上記オリジナルタイトル横の尺をみてもらえばわかるように、バットマンだけ長い。こんなもん、うだうだ2時間半もせんでええわ。「ダークナイト」は、この意味もなく長いというところに、作った人たちのイデオロギーが現れていると思う。曰く、「錯綜した現代社会を描いているので時間が必要です」。曰く、「権力による情報管理の恐怖を描いているので時間が必要です」。曰く、「主人公の人間性を丹念に描いているので時間が必要です」。あほか、お前らは。蝙蝠のきぐるみ着たおっさんが人を殴りまくる映画で、そんなもん描く必要がどこにあるんじゃい。結局、マニアが自己満足するだけのもんになっているじゃないか。「僕らが喜んで見ているのは子供だましではなくて、まじめに作られた高級な作品です」……(嘆)。
「シリアスに作ったヒーロー映画」。これって私が個人的に一番嫌うパターンであります。「深みのあるギャグ漫画」とか「クラシック調に編曲したロックの名曲」とかと同じ。そんなことなんでするんだろうなあ。シリアスなヒーロー映画はアラン・ムーアの「ウォッチメン」的手法以外は原理的に無理だと思うけどなあ。ただし私の考える原理なんてたかがしれてるので、それをはるかに凌駕するものもそのうち出るだろうし、ムーアの才能さえ将来は誰かに越えられるのは確実です。でも、今どきこんなバットマン見せられても「なーにを深刻ぶってんだか。こーもり男のくせに」という以外の感想はない。
去年、シカゴのダウンタウンのレストランに夫婦で行ったとき(キザな恥さらしついでに言うと10回目の結婚記念日でした。お店の人たちだけでなくまわりのテーブルの人たちまでお祝いしてくれました。多謝)、そのレストラン前を走るループ(高架の電車です)下の道路を使って、この映画のロケをしていました。ウェイターのお兄さんは「さっきまでそこにクリスチャン・ベールがいたんだよ」と言ってましたが、ベールはまあいいとして、ヒース・レジャーやゲイリー・オールドマンは見たかったなあ。残念であります。そんなこともあってちょっとは期待していた本作ですが、でもやっぱり駄目でした。クリストファー・ノーランって、どうも合わない。ファンの人、ごめんなさい。
対して、マーヴェルの2作品はもうヒーローもんの王道。こうじゃないと。ヒーロー誕生の経緯をさくさくと語り、あとはバトル。これ以外の何が「必要」なんだろうか。じゅうぶんです。これ以外の何が「可能」なのかは別の話だろうけれど、そうれはもうムーアの「ウォッチメン」的手法以外は(以下同文)。
特にマーヴェルは先のアン・リー版「ハルク」(見る気もしなかった)で痛い目にあっているんで、こんどの「ハルク」はまるで先の作品はなかったかのように、まったくの新作風にリメークされています。マーヴェルとしても前作は歴史から消したいんでしょう。
ハルク誕生をオープニングの数十秒で終わらせてしまうあたり、特に良。アクションと軽いテンポは必須です。その次のシーン(あっというまにブラジルに移動)で、主人公のエドワード・ノートンにヒクソン・グレイシーが例の呼吸法を教えるところは大笑いした。「身体によって精神をコントロールするのじゃ」っておっしゃってました。でも、それができんからハルクになってしまうんですよねえ。
この新作「ハルク」、話の基本は「サンダ対ガイラ」です。そのまんま、とは言わんけれど、まあ義兄弟みたいなバケモンがどつきあう構図はいっしょ。これが面白くないはずがない。ところが、その弟分が日本の予告編ではまったく出てきません。サイトで見たアメリカ版予告編にはちゃんと両方出てるのに、なんで日本版予告編には弟を出さなかったんでしょうか。出したらつまらん作品に見えるわけでもないのに。このあたりに、日本の配給会社の中途半端さが見える。映画のなかの本人(と言っていいかどうかわからんが)なんか、しまいには「ハルク・クラッシュ!」って叫びながら、ちゃんと地面を叩いて相手をやっつけてるんですよ。あのシーンではこっちも思わず「よっしゃー」とか叫びそうになった。やっぱり、ためらったらだめですよねえ。「ためらうな」って、この映画の宣伝コピーでも言ってるのに。
「アイアンマン」もよくできてました。あんなぬっぺりしたデザインをどうしたらかっこよく見せることができるか、そこがいちばんえらい。アイアンマンのVer.1とVer.2の違いというか、その質感の違いとか、デザインの差異だけでなくカメラの撮り方の違いで、両方ともめちゃくちゃかっこよく見せています。こういうのにファンは弱い。主人公のトニー・スタークの人物造形もよござんした。「ティピカル嫌な奴」のスタークが、まあいろいろあってああなるわけですが、それがちゃんと無理なく見えるのは、ロバート・ダウニー・Jrがやっぱりうまいということなんでしょうか。脚本も良くできてますが。
この「ハルク」と「アイアンマン」のマーヴェル・セット、公開順が日米で逆なので日本での公開順で見ると、ちょっとそれぞれのラストが変なことにもなっとります。が、まあそういう瑣末なことを指摘したとしても、今後マーヴェルが鋼鉄の意思で Avengers まで持っていこうとする怒涛のような流れをまったくもって押しとどめることにはなりません。実際はマーヴェルが世界中の純真な青少年(含む、元)の小銭をふんだくろうとすることであったとしても、もう誰にも( Avengers のメンバーたちでさえ)止めることは不可能でしょう。
ただ唯一の危険性は「キャプテン・アメリカ」。1941年生まれのこの反ナチ戦士、戦後は(部分的)反共戦士。「走る凶器の星条旗」でございます。この実写映像化でへたを打つと、マーヴェルの野望も北極において氷漬けになってしまいます。こわいなあ。
でもわくわくするよねえ(完全馬鹿>わし)。
このマーヴェルの野望をDCはどうみているんでしょうか。The Justice League of America つくるかなあ、DCは。あっちはジョーカーとかレックス・ルーサーとか、敵に強いキャラがいるから、そこは有利か。とはいえ味方の大将がスーパーマンっていうのはやっぱり弱い。でもグリーン・ランタンはちょっと見てみたい……などと、うだうだ思っていたら、「グリーン・ランタン」、実写で制作中なんですね。サイトで予告編が公開中です。2009年公開。
こういうことをつらつら考えていると、マーヴェルとDCというコミック専門出版社(というよりは両方ともすでに巨大娯楽企業なんだろうけど)のカラーの違いがわかって面白い。コカコーラとペプシとか、そういうのとも同じような差異。
だからこそ、DCの「ウォッチメン」の予告編の第一版がやっと公開されましたが、ちょっと不安があります。みんな(incl.わし)北極行きかあ?
つまらんかった。そりゃあ Spielberg と Lucas なんで面白いところもあったけど、でも全体としては退屈だった。このての映画で観客を退屈させてどうすんだろう。Raiders of the Lost Ark があまりにすばらしい作品だったので、2作目以降だんだんつまらなくなってくるのを見るのはつらい。じゃあ見んかったらええやんけ、と言われそうですが、Raiders of the Lost Ark があまりに(以下くりかえし)。それからこの作品、字幕の大事なところがすごく変。戸田奈津子さんはうまいと思うときもあるけれど、はずすと大きい。字幕ってそういうものかもしれませんが。
本作の設定は第二次世界大戦後、米ソ冷戦まっただなか。で、映画の最初のほうにインディ・ジョーンズ先生は「あんた、仕事なにしてんの?」と聞かれて「これでもシカゴ大学歴史学部の tenured(専任の)教授なんだよ」と答えるシーンがあります。ところがこの直後、哀れなジョーンズ先生は当時アメリカで吹き荒れていたマッカーシズムによる「赤狩り」にあい、シカゴ大学を失職してしまいます(正確には無期限出講停止。さらにはジョーンズ先生、なんと被爆します。冷戦の被害者=インディ。この設定にはびっくりした)。
で、そのあとアクションがどんどん進んでいくわけですが、そのなかのあるシーンで「あんた、本当に先生なの?」とまた聞かれます。で、すごくかっこいい画面(ほとんど歌舞伎の大見得みたい)のなかで言うセリフが "Part time!" これを戸田さんは「ときどきね」と訳してしまってんですね。シカゴ大学を馘首になってることをインディは自虐的に言ってるんだから、ここはやっぱり「非常勤だけど」とか訳すべきだと思う。
なんでこういう重箱の隅(でもないか)みたいなことを書くかというと、この "Part time!" というシーンが映画館での予告編やらテレビCMやらで使われまくっているからです。配給会社の社員は英語の堪能なひとばっかりだろうからこれが誤訳だとわかっているだろうに。もしかしたらこれは戸田奈津子を陥れるための陰謀なのか? それとも「戸田先生、ここちょっとおかしくないですか」と誰一人として言えないほど、戸田さんはあの業界で偉くなっているということなのかなあ。なぞは深まるばかりである。
ほかにも、映画のなかでかなりの頻度で使われるある英単語を普通に日本語に訳せばいいものを、理由はわかりませんが、無理に変な外来語に訳してしまってます。そのために映画の最後の最後、クライマックスの重要な会話がわけわからんことになってしまってます。ここはさすがにネタバレになるので具体的な単語は書けませんが、これもひどいと思った。この映画のテーマ(それがあるとしたらだけど)と言えるような大事なところがすっとんでます。
翻訳って本当にこわい。人のことばっかり言っている場合じゃないぞ>越智。
世間の評はかんばしくないので、こういうことを言ってしまうのも気がひけるけれど(一部嘘)、めちゃくちゃ面白い。これをほめないで何をほめるんだろう……とまで言うと言いすぎかなあ。ウォシャウスキー兄弟の少なくとも僕にとってはベスト。ど退屈な The Matrix の555倍くらい良かった。あの「マッハGoGoGo」を映画化して、これ以外の形があるんだろうか。アニメをアニメのように実写化して、なおかつそのアニメを見た人間に面白いと感じさせるのはすごく難しいことなんだと思う。汚泥映画『キャシャーン』のスタッフにも少し見習ってもらいたい。しつこいなあ>わし。アニメ版のオープニング・タイトルの最後、三船剛がマッハ号から飛び降りてポーズを決めて、そのまわりをカメラがぐるっとまわるように動くとこ、あるじゃないですか(今考えれば、カメラが被写体のまわりを動いているようにセル画アニメで見せるのは本当は大変だったんだろうし、そのうごきはウォシャウスキーが『マトリックス』で強調したものでもあるでしょうが)。あのポーズをちゃんとやってくれたときにはもう感無量でありました。ああ、タツノコ・プロへの愛、原作アニメへの愛。横溢してます。
とにかく何から何までアニメそっくり。マッハ号から登場人物の服装、顔つき、話し方まで。覆面レーサーもアニメそっくり。ここまでやるか。そりゃあ、ちったあ違うところもあります。たとえば舞台をアニメと同じ現代にして、そのうえでああいう悲惨なレースをすると、どうしても人が死んでしまいます。そのせいなのか映画では設定を近(かなあ?)未来にしていて、クラッシュが起こってもドライバーがあまり死なないようになってます(ほんとはあれでも死ぬとは思うけど)。そこ以外はすべてアニメのとおり。全体の世界観と肌触り。大きな構造と触感の双方がアニメと同一。
John Goodman, Susan Sarandon, Christina Ricci あたりが出てるわけですが、その人たちの気合いの入った「そっくりさん」度にも感動しました。特に Christina Ricci。彼女の顔がミッチーと本当に瓜二つ。彼女は「タツノコ」顔だったんですね。というよりも、タツノコの女の子キャラがああいうバタ系の顔だったということですね。
……と書いていて気づいたんですが、ミッチーはアメリカ版アニメでは Trixie という役名になっていて、こういうところにもこの作品の幸運というか、スタッフが細かいところまで大事にしようとした気配がうかがえます。大事だと思う、こういうことは。
というのも、この作品は3とか5とか、そういう数字のごろ合わせにこだわっているわけだし、マッハ号ではA〜Gまでのアルファベットのボタンがそれぞれの文字で始まる秘密兵器(たとえばAは auto jack とか。馬鹿みたいだけど、これもかっこいいでしょ)を作動させるわけで、そういう数字や文字のメタファー(というほどものもでもないけど)がすごく重要なお話だと思うのですが、そういうものをタツノコ・プロのスタッフだけでなく、アメリカ版アニメ制作者、そしてこの実写版スタッフが十全に共有しているというところがえらい。愛のあるところに幸福の鳥はおとずれるということかなあ。
そういえば鳥で思い出したんですが、スピード君は秘密兵器Gのギズモを使ってましたか? それだけが気になった。せっかくギミックとして紹介したんだから派手に使って欲しかったなあ。それにできれば水のなかにも潜ってほしかった。さすがにそこまではせんかったか、ウォシャウスキー兄弟。
でも本当にそこまでするんなら、やはりマッハ号をサファリ・ラリーに参加させてアフリカ象を跳びこえて欲しかったし、巨大な恐竜の化石の肋骨の下もくぐってほしかった。何を言っているかわからんかもしれんですが、わかる人もいるでしょう。ねえ、日米の1960年代生まれの皆さん。
<追記>
と、「ないものねだり」のようなことを書いた後、You Tube でアメリカ版アニメのTVタイトルを見たら、日本版よりも短くて、サファリ・ラリーのシーンはありませんでした。だからAボタン押して象を飛び越えるシーンもないし、巨大な恐竜の化石(久しぶりに見てみたら、ありゃあ化石じゃないですね。ただの白骨死体? でも大きいです)の下をくぐって、がらがらと壊していくシーンもありませんでした。ごめんなさいです>ウォシャウスキー兄弟。
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』とハリウッド版リメーク『ゴジラ』を合わせたような映画。実体はよくわからないけれど、とにかく大きな「ばけもん」が攻めてきたニューヨークを逃げまどう人々。そのなかの一人が持っていたホームビデオで撮った映像という設定。よくいえば「擬似ドキュメンタリー」。だから画面がうごくうごく。がたがた揺れるので、気持ち悪くなります。それを楽しめれば、まあまあの映画かなあ。面白いのはそのビデオカメラを持っている男が「絶望的なほどにお下劣な男」という設定になっているところ。まあこういう奴なら、ああいう状況でもついついビデオで撮ってしまうだろうし、あういうところにも行ってしまうかなあ、と思わせるのはとてもうまい設定だと思った。
で、一応は東宝の1954年版『ゴジラ』へのオマージュになっている、といったら、そりゃあ誉めすぎだと兄に怒られました。でもあの独特の足音とか、エンディングに流れる「伊福部昭」調の音楽とか、あれはオマージュと言ってよいかと。ただ、東宝の1954『ゴジラ』にとっての<ヒロシマ・ナガサキ>と、この『クローバーフィールド』にとっての<9・11>が同じだとすると、またそれは問題のある関係だと思う。
それにしてもこの映画でもハリウッド『ゴジラ』のときと同じ大失敗をやってた。でかい怪獣が小さい怪獣を生み落としそれが人を暗闇で襲う。なんじゃ、これは。ああいうでかい怪獣をせっかく出しておいて、その小さな「こども」というか、幼生というか幼虫というか、ちまちましたちっこいのをどうして出すかなあ。何が言いたいんだろう。ぜんぜん怖くないし、映画のリズムは切れるし。せっかくのどーんどーんという足音のでっかい怪獣の怖さも台なし。
それにこの映画、この期におよんでも、どうでもいいクズ人間のちまちました恋愛(それもただの浮気。「火遊び」ってやつですか? 私のような子どもにはわかりまへん)を映画のど真ん中に置いてます。そんなゴミ恋愛を描かないと怪獣映画の一本も作れないというイデオロギーにも問題があると思う。ゴジラに踏み殺される市民の恋愛なんか、この惨劇のなかで描けるかいっ、ぼけ、そんなもんどうでもええやんけ、というところから東宝怪獣映画の意味は見出せるというのはいかんですか。
ということで言いたいのは「でかい怪獣出しといて、ちまちまするなあっ(怒)」ということかなあ。簡単で申し訳ない。
すごくつまらなかった。こんなすばらしい題材をどうしてこんなにつまらない映画にできるんだろう。そこそこきれいな画面だったら、なんでもいいのか。こうなった理由は明確である。監督が囲碁にまったく関心を持ってないのだろうと思う。そんなんだったら作らなければよかったのに。このあたり、名作『力道山』との大きな違いが出てる。
僕はすごく面白かった。ニューヨークでの出張期間に間に合えば見ようと思っていた映画。幸いなことに間に合いました。必見だと思う。日本で公開するかなあ。してほしいけど。1968年8月、イリノイ州シカゴで開催された民主党全国集会にあわせて全米から集まった Yuppie たちがベトナム反戦集会を市内のリンカーン・パークで開催する。それが警察の介入によって大規模な暴動(と警察は呼ぶ)に発展した事件。その暴動に対する「共謀罪」が成立するとして8人の活動家が逮捕される。その裁判の法廷記録をもとに作られたアニメーション。被告8人+弁護士2人で"Chicago 10"。一般には"Chicago 7"と呼ばれますが、なぜこの映画が<10>にしているのか、それもこの映画を見ればよくわかります。
法廷シーンがアニメーション。民主党大会や反戦集会、警察による弾圧(というようななまやさしいものではないけれど)、逮捕などは記録フィルム。だから同じ人がアニメと実写の両方で出たりします。被告の Abbie Hoffman や Bobby Seale 、弁護士の William Kunstler たちがめちゃくちゃかっこいい。アニメでも実写でも。
この1968年の民主党大会前にはこんなことが起こってます。
1月30日 ベトナム、テト攻勢 4月4日 M・L・キング牧師暗殺@テネシー州メンフィス 全米都市部で暴動勃発 6月6日 ロバート・F・ケネディ上院議員暗殺@LAアンバサダーホテル そして8月、共和党の大統領候補はリチャード・M・ニクソンとなり、民主党はイリノイ州シカゴで党大会を開催する、と。
この裁判は単に8人(+2人)を裁くものではなく、そのシカゴでの抗議活動に参加した多くの一般市民の思想と行動を象徴的に裁くものにもなっていたのだと思う。だからこそ全米がその裁判に注目したんだろう。その緊張感が実写、アニメ両方から伝わってきた。
商業アニメとしてもすごく出来が良かったと思う。人物の動き方、表情の変化。CGって、もうこんなことまで可能になったんですね。編集も良。実写とアニメの間(ま)のとりかたとか。アニメのキャラクターの台詞(内容は法廷での実際のものだろうけど)の声もいいです。判事のJulius Hoffman の声を Roy Scheider、検察官の Thomas Foran の声を Nick Nolte。彼らがとてもかっこいい。それにしてもアメリカ人って法廷劇が好きだよなあ。この点もまた別に考えたい。これも、すでに考えている人はもうたくさんいるんだろうけれど。
たまたまこの映画を見たのが平日の昼だったせいもあってか、観客は圧倒的に高齢者。僕の後ろの席にも、おじいさん、おばあさんの5人くらいの集団がいて、終映後そのなかのひとりが "That's golden age." とつぶやいたけれど、それでいいのか。この映画をそういう「回顧」にしてしまって。その某老人の感想に比べると、その日の夜に一緒に飲みに行ったハリー・ハルトゥーニアンは、この映画について話していたとき、ある登場人物に対して "He's nuts, isn't he?" と激昂していたが、映画のなかの過去の人物とはいえ(だからこそ?)、その人物に向けられたハルトゥーニアンの「現役憤怒」のほうが同時代的には非常に重要だと思う。とある小さなバーで表明された個人の怒りをこんなところに書いていいのかよくわからんが、まあその怒りにも感動したので。
Marianne Faithfull と Miki Manojlovic のキャスティングだけで見に行った映画。こんな話だとは知らんかった。えらく重病になった5歳くらいの男の子がロンドン郊外におります。治療できるのはメルボルンの病院だけ。渡航費等で6000ポンドが必要。男の子の祖母がフェイスフル。彼女の息子とその嫁はお金をつくる能力がまったくない。ふたりともただのクズ。しかたがないので祖母はロンドン・ソーホーの風俗店で、ある仕事をこなしお金をつくる。それを知った息子と嫁は……という話に、マノイロヴィッチ演ずる風俗の店長が絡む。
不幸を嘆く暇があったら、とっととなんとかしろよ、という映画かなあ。それができないから不幸なんだ、というつっこみはなしですか。だから息子の嫁にいちばんリアリティがあった。
ニューヨーク在のおり、近所のタワーレコードでのサイン会のときよりもマリアンヌ・フェイスフルは貫禄がでてました。でもあいかわらずかっこいい。マノイロヴィッチも当然のようにかっこいい。かっこよすぎ。この二人のかっこよさ以外、あまり印象のない映画ともいえるなあ。でも彼がひとりも人を殺さない映画って、はじめて見たような気がする。
この手のドキュメンタリーのときにいつも思うことですが、スタッフは死んでないんだろうか。どうやって撮っとるんじゃろうかというシーンばかり。クジラの尾ひれにぶちあったり、メカジキに刺されたり、川に飛び込む象に踏まれたり、ヒマラヤを越える鳥と一緒に飛んでいて墜落したり。そういうことはないんだろうか。とにかくきれいな画面で。びっくりするようなシーンも多い。画面だけでなく、自然界の音の録りかたも微細でした。バックの音楽もきれいだなあと思っていたら、ベルリン・フィルだったんですね。失礼しました。日本語版ナレーションは渡辺謙。英語版は Patrick Stewart だそうです。どっちがいいかなあ。渡辺かなあ。
こんなもんを今年最初の映画にしてしまうとは。情けない。AVP も前作は面白かったのに。なんでこんなにつまらんもんにしたかなあ。これまでのエイリアン・シリーズとも切れてしまったし。いくらなんでも……というシーンもあるし。ああ、嫌だなあ。何といっても、この監督が考える「SFホラーのファン」像が不愉快。「こういうシーンを見せておけば、あいつらは喜ぶんだろう」というのが気になってしょうがなかった。わしら、こんなもん、見たいとは思ってないぞ。