2001年に見た映画


ところで、『ギャラクシー・クエスト』を見なかった人、後悔してます? してないか、そんなもん。


ゴジラ・モスラ・キングギドラ/大怪獣総攻撃
ビヨンド・ザ・マット
ソードフィッシュ
反則王
彼女を見ればわかること
千と千尋の神隠し
猿の惑星 PLANET OF THE APES
センス・オブ・ワンダー
ぼくのバラ色の人生
戦士の刻印――女性性器切除の真実
ハムナプトラ2 黄金のピラミッド
ボーイズ・ドント・クライ
ギター弾きの恋
セルロイド・クローゼット
グロリア
トラフィック
ハンニバル
ギャラクシー・クエスト
ダイナソー
ダンサー・イン・ザ・ダーク


ゴジラ・モスラ・キングギドラ/大怪獣総攻撃
東宝、2001 - 105 min.

2001年12月28日 衣山シネマサンシャイン(松山市)

2001年の暮、実家に寄生じゃない帰省(って、まあ似たようなもんですが)しているとき、従兄弟の子(ってなんていうんだったか)や甥を連れて見てきました。朝から彼らといっしょに映画を見て、そのあと映画館の近くのイタ飯屋でピザやスパゲッティを食う。昔は連れて行ってもらうほうだったんですが、一世代うごいたんですね。とうとう俺もこういうことをする歳になったんだなあと、おじさんは思ったものでした。

そんで金子修介が監督したこの作品。面白い。よくできてます。とうぜん金子といえば、伊藤和典(脚本)と樋口真嗣(特技監督)とのトリオで制作した「平成ガメラ3部作」の監督なんで、その金子がとうとうゴジラを撮るとはなあ……という感慨も深いです。

金子修介がガメラシリーズとはちょっと違うノリで撮っています。某映画評論家が「金子はガメラで出来なかったことをこの映画でやっている」というようなことを書いていたので、どこが違うんだろうと思いながら見ていたんですが、そうなのか、これは。ガメラでできなかったことをしているのか。ちがうと思うぞ。ちょっとうがった見方をすると、これは金子ガメラがいかに良くできていたかを再確認するようなつくりじゃないか。「やっぱ、ゴジラって駄目よ」って言ってないか。これはとても面白い映画だけど、メッセージ(というほどのものじゃないけど)としては「金子ガメラはやっぱりいいだろう」というものを感じました。

当初の案ではあの「護国三聖獣」はもっと地味な怪獣たちだったそうで、それじゃあいくらなんでもお客さんが呼べんだろう、ということでバラゴン、モスラ、キングギドラになったらしいです。とはいえ、いきなり「地底怪獣バラゴン」だもんなあ。泣くぜ、この世代は。あのバラゴンと闘ったフランケンシュタインを演じた方はその後どういう人生を送られたのかなあ。ちなみにあの映画、確かエンディングが海外版と国内版で違うんですね。海外版だと、バラゴンとフランケンシュタインの格闘シーンのあとに「大蛸シーン」が追加されたような。いつぞやのテレビでは海外版が放送されていた記憶もあるが。

そのバラゴン、ゴジラに比べてえらく小さく見えるように撮られています。このあたりの撮り方もうまい。ま、ストーリーもそんなにたいしたことはないんですが、全体の怪獣映画としての雰囲気がいいし。ストーリーなんぞ気になりません。

同時上映が『劇場版・とっとこハム太郎――ハムハムランド大冒険』。どうだまいったか、という感じですが、これがちょっとした悲劇を引き起こしています。映画館のチケット売場に張り紙があり「迫力ある怪獣映画ですから、子供様には十分な説明をお願いします」だと。ハム太郎が好きな世代には金子ゴジラは確かに酷な映像かもしれん。ハム太郎だけ見て帰る家族も多いだろうなあ。逆もありなんで、私らはゴジラだけ見て帰りました。どうでもいいけど、「子供様」って変な言葉遣いだよね。

ちなみに、この二本立て興行をご覧になる方、もれなく「ゴジハムくん」ってのがもらえます。ハム太郎がゴジラのきぐるみの中に入っているおもちゃで、けっこう良くできてます。青・緑・ピンクの3タイプ。私の兄はこどもと行って2個をゲット。当然「コンプリート」することに燃えていて、「ピンクを取って来い」という指令が来ました。もらってはきましたが、四〇のおっさん(私のことです)が「ピンクのゴジハムくん下さい」と言うのは恥ずかしかったです。


ビヨンド・ザ・マット
Beyond The Mat, 1999 - USA - 102 min.

2001年12月18日 新潟市民映画館シネ・ウインド

アメリカン・プロレスのドキュメンタリー。中心になるのは、テリー・ファンク、マンカインドことミック・フォーリー、ジェイク・"ザ・スネーク"・ロバーツ、それから世界最大のプロレス団体WWFの社長ビンス・マクマーン。

プロレスは八百長だあとか、そんなどうでもいいことを言うためのドキュメンタリーではない。プロのエンターテインメントとは何かというようなことか。それと、そのエンターテインメントを成立させている人たちの家族愛。仕事のために平気で家族を犠牲にする人々を誉めつづける人々(日本人のことです)からすれば、これはちょっと異質な世界に見えるだろう。でも、この映画のテーマはやはり「家族愛」である。テリー・ファンクもミック・フォーリーもとにかく家族を大切にする。フットボール出身の期待の新人も登場。その彼のレスラーとしてのギミックが「ゲロ吐き男」となるが、それでも彼は「母さん、WWFでデビューできそうだよ」とすぐに母親に電話する。

そんな家族に見守られながら、レスラーの皆さんはみんな流血。WWFってやっぱりすごい世界だ。血だらけのレスラーに対して「よくがんばったな。でもショーは続くのじゃ」などと豪語するビンス・マクマーン社長。その彼もリングに登場してレスラーにどつかれ、頭がばっくり割れて血を出している。

いろいろ面白いシーンも多いです。なかでも、ロイヤル・ランボーでのロックとのデスマッチ(正確には "I Quit" マッチ)を控えたミック・フォーリーが、心配する子供たちに「パパはロックとお友達だからね」と言い、すぐあとにロックと談笑するシーン。ミック・フォーリーの一家とロックがシェーン・マクマーン(彼も当時は悪役だよなあ)を交えて談笑していると、その向こうをストーン・コールド・スティーブ・オースティンがすごく恐い顔をして通りかかり、ミック・フォーリーの家族を見つけるや突然やさしい顔になり「やあ久しぶり、元気だった?」などと言いながらミックの妻と握手、別れ際に「うちの娘も来てるから、また後でね」などと去って行く。わたし、笑いました。

ジェイク・ロバーツの部分は暗い。WWF解雇後のロバーツ。元スーパースターが今は地方のどさまわりで生きている。その彼が実の娘に久しぶりに会う。彼の娘は大学で心理学を専攻してて、そのあたりの知識もあるせいか、アメリカ社会独特の心理分析癖みたいな傾向も見せつつ、ねちねちとロバーツをいじめます。「今の私が不幸なのはパパのせいよ」って言われてもなあ。娘と別れた後、ふたたびドラッグに手を出すロバーツ。彼のWWF時代、アリス・クーパーと一緒にリングに登場するシーンなど、華やかな時代の映像も出てくるだけに、現在のロバーツは見るのがつらかったです。でもショーは続きます。


ソードフィッシュ
Swordfish, 2001 - USA - 99 min.

2001年11月15日 ユナイテッド・シネマ8新潟

もっと派手な映画かと思ったら意外に地味だった。例の爆発シーンはさすがに凄かったが。

簡単に言うとオリジナリティが低い。ストーリー、画面、キャラクター、音楽……これらすべてがいろんな映画の寄せ集め。所詮、映画ってそんなもんじゃという方もいらっしゃるかもしれませんが、それらが寄せ集めだとしても、見せ方ひとつでパクリであることをごまかしつつ、新しいと思わせるのが映画技術というもんでしょう。

もとネタになっていると思われるのは、

『ブローン・アウェイ』
『スピード』
『フェイス・オフ』
『トラフィック』
『ダイ・ハード』
『レザボア・ドッグズ』
『パルプ・フィクション』

というあたりかなあ。特に登場人物たちがそれらの映画に出てきたまんま、という感じで動くんですね。この映画でも John Travolta はとてもかっこいいのですが、その人物が『フェイス・オフ』や『パルプ・フィクション』での役を混ぜたみたいでデジャ・ヴュ状態。Hugh Jackman と Halle Berry のコンビなんぞも『X-MEN』そのまま。Jackman が怒ると手から長い爪がにょきにょき生えて、Berry が怒ると吹雪が起こるのかと思うほどでありました(嘘だけど)。いちばん可哀相なのは Don Cheadle で『トラフィック』の刑事と同じ役名で登場しても驚かんですね。さらにはその彼がまったく光ってない。良い役者なのにもったいない。Sam Shepard はこの映画ではあまり期待されてないようで、あんなもんでしょう。「特別出演」ですね。

ストーリーは世間でいっているほどややこしくはない。簡単な流れ。上映時間も短い。あっという間に終ります。観客がだまされるような話じゃないです。それになんだかんだ言って、現状肯定的アメリカ国粋主義の開き直りみたいなのが気に入らんかったです。

それからこの映画は「ハッカー映画」という紹介もされているようですが、その点では特に駄目なんじゃないですか。主人公のハッカーの名前がスタンリー・ジョブソンで、フィンランドからアメリカに入国する別のハッカーの名前がアクスル・トーバルズというあたりの遊びは許せるとしても、本当のハッカーがあんな人々とは到底思えないです。あれを見て大笑いしているハッカーたちは多いだろうなあ。

ところで、なんで最近のアクション映画ってTVRの車がやたら出てくるんでしょうか。流行かな。それともTVRがいろんな映画のスポンサーになってるってことですか。多分、後者だろうなあ。詳しい人、教えてください。このTVRを使ったアクションシーンもちょこっとかっこよかったですね。でも、本当にあんなことしたら、トラボルタたちも即死でしょう。よいこのみなさんはけっしてまねをしないように。


反則王
The Foul King(ハングルわからん。多謝),2000 - Korea - 112 min.

2001年11月12日 新潟市民映画館シネ・ウインド

面白かったです。映画ファンもプロレスファンも楽しめる劇映画というのは少ないけれど、これは大丈夫じゃないかなあ。映画としてはアルドリッチの名作『カリフォルニア・ドールズ』にはおよばないけれど、まちがいなく「プロレス心」に触れている佳作。おそるべし、韓国映画の懐の深さよ。

うだつのあがらない銀行員が反則技ばかりのプロレスラーに変身するという設定は、映画を見る前はちょっとなあと思ったけれど、映画を見ているうちになんとなく納得させられてしまいました。編集がうまいんでしょうか。

なにかというと「まじで」ヘッドロックをかけまくる上司の人物造型も良し。当然、主人公の描き方も良し。うらぶれたプロレスジムを経営する往年の反則レスラー(ほとんど丹下段平)も渋いし、当たり前のようにいるその娘ミニョンも良い。これが林屋の紀ちゃん状態かと思えば、実はプロレスが強い。このミニョンを演じるチャン・ジニョンという女優さん、すごいっす。何がすごいかは言いにくいが、存在感といい、顔つきといい、演技の質といい、すごいと思う。あんまり書くと差し障りがあるが、目が涼しい。私もおっさん化したか。

この映画の好きなシーンとしては、主人公がマスクをかぶったままスーツ姿で夜のソウルを走るところ。泣きはしませんでしたが、感動しましたです。でもこのシーン、トム・ウェイツのぱくりみたいな音楽はちょっと難ありか。

評判になっているプロレスシーンも確かによくできています。なによりも、映画を作っている人たちが同時にプロレスも好きだというのがよくわかるのが良いですね。あそこで描かれているのがプロレスの真実だとは思わないけれど、プロレス的なものの一部は確実に描かれています。押忍。

全体のストーリーもべちゃべちゃしてなくて良。からっともしてないけれど、情念プルコギ状態でもない。ポップです。このあたりの処理のしかたは最近の日本映画にも見習ってほしい。家族もかえりみず、過労死するまで働く北海道の国鉄職員の話で涙もらって金儲けしようとしてますからね、日本映画界は。いつから日本映画界はNHKの国辱番組『プロジェクトX』の下請けになったのかと批判したいです。

おまけ。とあるシーンで反則レスラーが使うフォークについて「あ、これブッチャーが使ってた」と主人公が言う字幕が出てきます。でも、僕はこのときの台詞のなかに「えいげん・はるか」という音を聞いたような気がするんですね。やっぱり永源は韓国であういうことをしていたんでしょうか。それとも僕の空耳アワーかなあ。

追記:後日、同僚の韓国史の先生がこの映画の VIDEO-CD を韓国で買ってきました。彼は韓国・朝鮮語をほぼ母語のように使います。彼に確認してもらったところ、やはり主人公は「あ、これ永源遙が使ってたやつだ」と言っているということでした。


彼女を見ればわかること
Things You Can Tell Just By Looking At Her, 2000 - USA - 106 min.

2001年11月9日 新潟市民映画館シネ・ウインド

うーむ、なかなか評価しにくい。良いところもあるけれど、全体がカスに見えたりもする。

あのガルシア・マルケスの息子のロドリゴ・ガルシアが初めて監督した作品。それまで撮影監督をしていたロドリゴ、満を持して、という感じなんですかね。

オムニバス。ぜんぶで5話かな。でも、都会風におしゃれな話を集めてみました……という映画ではない。けっこうしんどい話が多い。間抜けな話もあるにはある。それらが少しずつ関連している。まあこのあたりはよくあるパターンですね。

ところが、そこに出てくるのが、Glenn Close, Cameron Diaz, Calista Flockhart, Kathy Baker, Amy Brenneman, Holly Hunter という、今はこれ以上派手なキャスティングはないというくらいの女優たち。こんな派手な面子をそろえておいて、結局「人生いろいろですなあ」としか言ってないような映画にするってのは、これも一種の才能か。でも「インディペンデントっぽい」ってのはけっして誉め言葉じゃないと思うぞ。

別に親の名前がついてくるのがいかんとは思わんし、そんなことも利用してのし上がるのがハリウッドだろうし。でも結局、言いたいことのない映画に見えました。言いたいことのない奴がものを作ってはいかん、というのは僕の基本姿勢です。いかんですかね。

登場人物が一ヶ所に集まるわけではないけれど、これもやっぱり「グランド・ホテル形式」かな。でもグールディングの『グランド・ホテル』の場合は映画の中心にガルボがどどーんと座ってたからなあ。あれは凄かった。

ということで、今回は(も?)あまりまともな感想になってないですね。


千と千尋の神隠し
徳間書店・スタジオジブリ・日本テレビ・電通・ディズニー・東北新社・三菱商事、2001 - 125 min.

2001年8月16、22日 ユナイテッド・シネマ8新潟

見終わった瞬間にもう一度見たくなるような映画。至福のひとときでした。それで、上の鑑賞日時をみればわかるように、わしら夫婦はもう一度見に行きました。その結果、私は妻に「番台蛙」と呼ばれておる。へーい、おはやいおつきで。どうぞごゆるりと。

そんで、映画は怒涛の宮崎ワールド――とか書くとえらく平板な形容だが、そのとおりなんだからしかたがない。なおかつ宮崎作品のなかでも『カリオストロ』以降ではいちばん面白いと思う。たいしたものである。自慢じゃないが、私は宮崎がらみの作品はたくさん見てるぞ。実家の小汚い本棚の側面には『太陽の王子ホルスの大冒険』の公開時のステッカーが貼られているし。今はなき松山東映グランド劇場でもらったもの。30年以上も前の私が貼ったので、もうだいぶ汚れているはずだが。

昔の日本の子供は必ず夏休みと冬休みには「東映まんがまつり」と「東宝チャンピオンまつり」を見なければならなかった。大げさな言い方だけど、本当にそうだったでしょ、同世代の人。両方とも子供向けの数作品の組み合わせ。「豪華五本立て!」とかね。ひどいときなんぞ、七本立てとかあったんじゃないかなあ。でもそうなると一日に二回くらいしか上映できんよなあ。

それぞれ中心になる作品があって、東映は長編アニメ、東宝は怪獣映画だった。その「東映まんがまつり」のある年のメイン作品が『太陽の王子ホルスの大冒険』だった。ほかの年には『長靴をはいた猫』とか『幽霊船』とか。東宝のほうはいうまでもなく『怪獣総進撃』とか『ゴジラ対ヘドラ』とか。でもゴジラ作品じゃないときもあって『緯度ゼロ大作戦』や『決戦!南海の大怪獣』などという渋いのもありました。ゲゾラ、ガニメ、カメーバってやつね。東宝は新作だけじゃなくて、時には『モスラ』や『キングコング対ゴジラ』などの旧作もやってたので、幸い、ほとんどの東宝怪獣映画を映画館で見ることができた。

あのころ、子供映画をやってた映画館は本当に満員だったなあ。母、兄、私の3人分の席を取るのに苦労したぜ。父は何をしてたんだろうか。『ベン・ハー』(当然、リバイバル)や『トラ!トラ!トラ!』(こっちはロードショー)などの洋画は家族4人で見た記憶があるが、日本の「こども映画」は母親としか見てないなあ。

そういえば、松山三越のおもちゃ売り場でずっと売れ残っていた『南海の大決闘』(『南海の大怪獣』にあらず)のエビラのプラモデルは、いったい誰が買ったんだろう。本当に欲しかったなあ。数回、買うチャンスがあったが、ついついネロンガやウルトラマンを買ってしまった私が悪い。ネロンガのほうは良いプラモデルだったが、ウルトラマンは悲しかった。なんとか立たせてスイッチを入れるとばたんと倒れてがーがーうなっておりました。目とカラータイマーは麦球(ああ懐かしい)で光っておったが。

ちなみに『太陽の王子ホルスの大冒険』って、主人公がホルスではなくて、実はヒルダのほうだったんで、見ててびっくりした記憶がありんす。こうやってドラマツルギーというものを子供は体感していくんでしょうね。おおげさか?

と、ほかのことばっかし書いてますが、『千と千尋の神隠し』については、とにかく見てください。テーマについて云々する映画でもないっす。面白ければ、それでいいし。絵も音もとてもよろしい。ストーリーのテンポにあわせた画面のリズム。風の音。水の音。文句のつけようがないです。ときどき入る凝った画面の力もすごい。最初のほうで、石の道祖神みたいなのが森の中でつったってるシーン。びっくりしました。汽車を見送る影の女の子。恐いです。主人公の千が花の壁のあいだを歩くシーン。これはちょっとやりすぎかな。声優もみな良し。

ところで、この映画は本当に子供に人気はあるのだろうか。小さい子だと楽しむ前に恐がりそうなシーンも多いような気もするが。

個人的に言えば、千が泣きながらおにぎりを食べるシーンが好きです。戦後日本映画史に残る名シーンだと思う。個人的な記憶も多々よみがえり、私も泣きました。本当に個人的記憶だけど。でも普遍的な気もする。嗚呼、1961年生まれ。


猿の惑星 PLANET OF THE APES
Planet of the Apes, 2001 - USA - 120 min.

8月6日 ユナイテッド・シネマ8新潟

ティム・バートン、最大の駄作かな。いかにも時間がありませんでしたってつくり。特に編集に時間かけてないみたいだなあ。画面のリズムが悪い。

「やっぱり前作は凄かった」と思わせるのって、リメイクとしては最悪でしょう。フランクリン・シャフナーのオリジナルのほうがはるかにわくわく度が高い。ぜんぜん、もりあがりません、今度の話。

たとえば、オリジナルを見た人なら、テイラー、コーネリウス、ジーラ、ザイアスといった名前を聞いただけで、暗い映画館の座席で受けた印象を思い出すでしょう。始まり方の不安感、猿のメークをした Roddy McDowall や Kim Hunter が出てきたときのびっくり感、音楽の不気味さ、わけのわからん案山子の恐さ、喉を怪我して声が出なくなったテイラーのもどかしさ、ロボトミーされた友人の恐怖、衝撃の(陳腐な表現ですが、そういうしかないもんなあ)ラスト。これらは見た人たちにとって稀有な映像表現として記憶されているはずだ。

ところが、そうした感覚がこのリメイクにはない。全体的に平板。

俳優たちも、あからさまなミスキャストの Mark Wahlberg や、可哀相な使われ方の Michael Clarke Duncan 、Kris Kristofferson など、みんながんばってはいるのですが、「なんでこの役が僕なんだろう」というふうに見えます。

他の役者としては、ティム・バートン映画ですから、当然のように Lisa Marie がまたいつもと同じ役で出ます。好きだなあ、この人。もう一人の特別出演は言わずと知れた Charlton Heston 。前作でテイラーを演じ、現在は全米ライフル協会(NRA)会長として銃規制反対派の象徴となっている彼ですが、このハリウッド保守派の長老俳優に、老いて死に行く猿を演じさせ「ええかぁ、銃なんてものは猿社会を滅ぼすのぢゃからな。絶対使うんぢゃないぞおぉぉ」と言わせているバートン監督。屈折してます。このあたりはとても面白く見ました。

その老猿((c)高村光雲)の息子を演じ、悪役ひとりじめの Tim Roth はかっこいい。さすが。とにかく残忍な猿。こっちのほうが高村光雲作の迫力に近いかな。とはいえ、悪役でも猿はやっぱり猿なんで、興奮すると、うききーっと木に登ってしまうあたり、哀しくもおかしい。他にも猿たちがトランプしてて、カードを足の指にはさんで出すシーンとか、日記をつけている猿がペンを足で持ったままぼーっとしてるシーンとか、ディティールは面白いんですよね。でも全体的にはだめ。

ということで、オリジナルを撮ったフランクリン・シャフナー、寡作な監督ですが、『猿の惑星』、『パットン大戦車軍団』の二本を立て続けに撮ったというのは、これはすごいことですよ。個人的にはその後の『パピヨン』も好きなんですが、ちょっと世上の評価は低いでしょ。だいたい僕はスティーヴ・マックィーンが出ればそれでいいと思ってしまうところがあるしなあ。だからプリファブ・スプラウトのセカンドLPのタイトルが『スティーヴ・マックィーン』になったと聞いたときには、「そうそう、そうなんだよ」と意味もなく納得したぜ(じつは今そのCDを聞きながらこれ書いてます)。ジャケット写真もいいよね、あのLPは。

ちなみに(またまたですが)、この『パットン大戦車軍団』が作品賞、監督賞、オリジナル脚本賞(F・コッポラっすよ)、主演男優賞などを受賞した1970年のアカデミー賞の他の受賞は、脚色脚本賞が『M・A・S・H』のリング・ラードナーJr.、特殊効果賞が『トラ・トラ・トラ! 』、作曲賞が『ある愛の詩』でフランシス・レイ、編曲歌曲賞が『レット・イット・ビー』でビートルズ……と派手な年だったんですね。ベトナム反戦、真っ只中という気もしますが。冷戦、真っ只中かな。いっしょだけど。

この『パットン』で主演男優賞を獲得したジョージ・C・スコットはもともとアカデミー賞に否定的で、以前からノミネートさえ拒否していたのですが、『パットン』で主演男優賞に輝くも、あっさり受賞を辞退します。このときのオスカー像はプロデューサーが預かり、結局パットン将軍の博物館に寄贈したそうです。この2年後に『ゴッドファーザー』で主演男優賞を受賞したマーロン・ブランドも、ハリウッドにおけるネイティブ・アメリカンの描き方に抗議して受賞を辞退してますね。そういう点ではコッポラはオスカー辞退男優製造マシンだな。

ところで、この伝記映画としては史上最高の傑作 "Patton" を『パットン大戦車軍団』という邦題にした人間には、(もし向こうが生きているなら)一度会ってみたいことよなあ。


センス・オブ・ワンダー
Sense of Wonder, 2001 - グループ現代 - 107 min.

2001年7月29日、新潟市民プラザ(新潟市NEXT21ビル)

これは困ったことになったなあ……という映画。本学としてもこの映画の新潟での上映を後援しているし、そのこともあって僕自身もこの上映会に少しは関わってきた。この映画の企画自体にもすごく大きな意味はあったと思う。でも、やはりこの映画の問題点は言っておかなくてはいけないだろう。まず、何も知らないでこの映画を見たら、いったい何の映画なのかさっぱりわからん。

『沈黙の春』を書いたレイチュル・カーソンの自然賛歌(と言っていいですか)のエッセイ『センス・オブ・ワンダー』を小泉修吉さんが監督しました……と一般に説明されるんだろうけれど、そんな映画なのか、これは。

『沈黙の春』ってなんじゃ、とか、レイチュル・カーソンって誰じゃ、と言う阿呆は放っておいても良いだろうけれど、上遠恵子さんが日本レイチュル・カーソン協会の会長で、カーソンの書籍のほとんどを翻訳している研究者である……ということくらいは説明があっても良いのではないか。そうじゃないと、この映画のなかでカーソンの文章をひたすら朗読するあのおばさんは誰だ?……ということになりませんか。子供が観るのも期待して作られた映画でしょ、これは。それだったらもっと観客に親切になってもいいだろうになあ。

正確に言うと、これは上遠恵子さんが本を読む映画です。それだけの映画です。その本がたまたま『センス・オブ・ワンダー』であって、バックにメイン州の景色が少し映ると。ひとりの人間が本を読む映画があってもかまいません。それが良い映画だったら。でもこれは良い映画ではないです。

すべてが中途半端。朗読を通したカーソンの紹介でもない。『センス・オブ・ワンダー』という一冊のエッセイの映像化でもない。映像によるメイン州の自然賛歌でもない。すべてが中途半端……というより、すべてが駄目。

いちばん不思議なのは、朗読する上遠さんを延々映しつづけたということ。あそこまで延々映しつづけて、何が言いたかったんだ。そんなに朗読させたければ声だけでも良いだろうになあ。まずご丁寧に長いあいだ上遠さんに朗読させ、その朗読する姿も映し、それが終わってからその朗読内容に近げな自然を画面に映す。こんな素人みたいに下手なことをするから、映画を見てる人間には非常にぎくしゃくした印象しか伝わりません。朗読でこちらに伝わるイメージと画像のイメージがいろんな意味でずれます。まず時間差があるでしょ、朗読と画像とのあいだに。それから文章を聞きながら各自は頭の中にイメージするわけですが、そのあとで監督がとった非常に<しょぼい>画面がでるんですね。えっ、カーソンが書こうとしていた風景ってこんな汚いものだったのか……と思ってしまいます。自分の頭の中のイメージとスクリーンの画像がずれる。カメラも暗い。光が足りない。音もきたない。カセットで録音したんじゃないか。

最近のテレビの自然を扱うドキュメンタリーって異常に画面がきれいでしょ。馬鹿みたいなクイズ形式の白痴番組でも、クロオオアリの拡大映像とか、海の中のミノカサゴとか、本当にすごいでしょ。その自然を画像で切り取るまじめさには、番組全体のあほらしさ加減を無視すれば、一種の職業倫理さえ感じさせるほどじゃないですか。それにくらべてこの映画の画面はひどい。16ミリフィルムでもできることはいろいろあるんじゃないでしょうか。やる気がないのなら、最初からやめておくべきだ。

そもそも、この映画のスタッフはカーソンの愛した自然を正面から撮ろうという気持ちはなかったんじゃないか。なんかどうでもいいような風景がだらだらと映るだけ。唯一、自然を写しましたというのは海岸にうちあげられている海藻の上を這う蟹の映像くらい。その他の画像は、はっきり言って一般の旅行客が撮った観光ビデオと大差はない。最近のそのての民生機器ってすごいし。

と、ひどい映画ですが、そのなかでもえらく不愉快だったのは、途中で出てきたカーソンの幽霊みたいな人たちですね。あれはなんだ? カーソンはこうしてメイン州の海岸を歩いていたんですよ……とか言いたいのか。それだったら、全体をそういう映画にしたらいいだろうに。カーソンの幽霊だして、朗読してる上遠さん撮って、蟹撮って、カーソンの別荘撮って……と、もう滅茶苦茶。もしかしてその場その場の思いつきだけで映画を撮ってないか。

それから、これは一年間にわたってメイン州でロケした映画だそうですが、何をどう考えたら、あんなに季節の順番をめちゃくちゃにした編集になるのだろうか。そこに何かの意味があったのか、私にはさっぱり理解できません。季節感ゼロ。春の次に秋が来て、秋の次に夏が来て。細かい順番は覚えてないが、映画の終わりのほう、あまりのひどさに絶句しましたです。

申し訳ないなあ。けなしてばかりで……。

こういう作られかたをした映画は誉めたいところですが、やっぱり無理です。こんな映画を、その思想性だけで誉めたりするから、日本映画全体が駄目になっていくんでしょうね。駄作は駄作だあ。こんな映画ばかりだから「教育映画」=「ごみ映画」と思われるんだぞ。『セサミ・ストリート』を見習え。本の『センス・オブ・ワンダー』に謝れ。上映運動に協力した人たちに謝れ。

今日の教訓。「想い」だけでは、考えは人に伝わりません。技術や資金や熟慮や思想が必要です。でも、今回の感想を書くのに僕も本当に困っておるということは、文中にやたら「……」という記号がでてくることからもわかりますね……。


ぼくのバラ色の人生
Ma Vie En Rose, 1997 - UK / Belgium / France - 90 min.
AKA
My Life in Pink

7月3日 新潟市民映画館シネ・ウインド

性同一性障害の「男の子」(と世間では一般に呼ばれる人)の話。

この映画については、この公開講座で初めて学外から講師を招きました。作家の蔦森樹さんにわざわざ沖縄から新潟まで来ていただきました。どうもありがとうございました。さすがに話は面白く、とても興味深い話を一気に2時間。受講生も満足したことでしょう。お呼びしたかいがありました。

この映画の良いところは主人公が嫌なガキなところ。こうした点は『ボーイズ・ドント・クライ』と共通かな。清く正しい「良い子」が差別されるというのではなくて、普通にどこにでもいる嫌な子供が差別される。さあ、これは彼が性同一障害をかかえているからでしょうか、という問い。そいつが嫌なガキだからだよ、と答える人もいるかもしれない。

でも映画全体見ると演出過多かな。特に、あの子供の手の動かし方がくどい。ああいう表現をしないで、彼自身のアイデンティティは描けなかったんでしょうか。教室のシーンなどからすると、ああした仕草が世間からどのように見られるのか、それを彼はすでに意識していたんでしょう。そのうえで彼はわざとああした立場をとるわけですね。じゃあ、彼が本当にしたい仕草って何だということにならないですか。彼にあの仕草を教えたのは誰だということにならないですか。お母さんやお姉さんはああしたゲイ的(女性的にあらず)な仕草をとらないでしょ。

つまり、成長期の人間の性的志向性を描くとき、こんなに簡単にその志向性を「所与のもの」として描いていいのかという問題でもありますね。。人格も含めて変化する時期にあるからこそ、幼児の性的志向性ってややこしいのではないですか。映画の都合上、この主人公がああいう性的志向性をもっていることをすべての前提みたいにしているけれど、本当にこうした問題を考えるのであれば、そうなるプロセスも議論の対象にする必要はあるでしょう。それは、あるゲイの大人がゲイになった理由を問うということではなくて、もっと個人の成長と社会化の大事な時期の性的自己存在の獲得を問うということだと思うが。ジェンダー・バイアスばりばりの固陋な意見ですかね。


戦士の刻印――女性性器切除の真実
Warrior Marks, 1993 - UK - 54 min.

6月24日 新潟市民映画館シネ・ウインド

本学の公開講座「ジェンダー・トラブル」第三弾。かつては「女子割礼」と呼ばれていた慣習的行為についてのドキュメンタリー。この習慣は今では「女性性器切除」、「FGM female genital mutilation」などと一般には呼ばれています。

『カラー・パープル』を書いたアリス・ウォーカーがプロデュース。監督はインド系イギリス人でレズビアンをカムアウトしているプロティバ・パーマー。ウォーカーがアフリカの各地域をまわって、いろんな女性に女性性器切除についてのインタビューをするのをパーマーが撮ったというドキュメンタリーです。

このようなマイノリティの本道(っていうのも形容矛盾だけれど)を行っている二人が作った映画なんで、もっと丁寧な映画かと思ったら意外に雑な映画でした。さらには、政治的にも問題のあるつくりでした。おそらくインテリからは「ポリティカリー・インコレクト」と批判されるような作品ですね。扱っているテーマの深刻さ、重要さのわりに作りが雑。

「女性性器切除も大切な文化のひとつだ」などと開き直る馬鹿は無視しておいていいとは思う(ほんとはいかんが、文脈上無視)。でも、この慣習を語るには細かく気をつかう必要があると思います。作られることが必要な作品ではあるけれども、表現にはもっと別の方法論を考えるべきだと批判される作品だろう。

たとえば、あのわけのわからん「舞踊」は何だ。いかにも先進国がアフリカを見ているような視線。音楽といい、演出といい、「オリエンタリズム」まるだし。私は不愉快でした。さらには、これはパーマーたちの責任ではないが、字幕もひどい。なんでアフリカの女とアリス・ウォーカーたちで言葉遣いが違うんだろうか。いかにもアメリカのインテリと野卑なアフリカ女の違いという感じで、これも不愉快。さらにはパンフレットのつくりにも問題があると思ったが、そこまで言うとパーマーが可哀相なので、もうやめます。

じゃあ、お前は女性性器切除についてどう思うんだと聞かれれば、私もそれに答える必要はあるんでしょうが、このページでは書くつもりはないです。考えていることは公開講座の会場でも話しました。一部は論文でも書くつもりです。


ハムナプトラ2 黄金のピラミッド
The Mummy Returns, 2001 - USA - 129 min.

6月20日 ユナイテッド・シネマ8新潟

世界最大のプロレス団体、WWFの超絶的ベビーフェイス・レスラー、ザ・ロックが出演しているってんで見に行きました。はい、私が阿呆でした。ロックは古代の王、スコーピオン・キングを演じておりましたが、画面に出たのは最初の2分だけ。あとはどうでもいいゴミ映画でした。

だいたい、この映画、原題を見て欲しいけど、"The Mummy Returns" ですよ。『ミイラの逆襲』。こんなタイトルの映画、誰が見に行くんじゃい。はい、私が見に行きました。笑ってやってください。CMにだまされました。こうやってアメリカ中の子供たちを泣かしたんだなあ。おそるべし、WWF。そんで、こんどはちゃんとザ・ロック主演の映画を撮ったらしい。さらにおそるべし、WWF。

この映画について一点だけ。最初のほうのシーンで犬みたいにしゃかしゃか走るミイラが出てくるが、これはほとんど『エイリアン3』のエイリアンと同じ動き方じゃないか。壁も走るし。それから、あるタイプのミイラは『スピーシーズ』のばけもんと同じ動き方じゃないか。ああいうSPFXのCGのプログラムも使いまわししてんでしょうかね。


ボーイズ・ドント・クライ
Boys Don't Cry, 1999 - USA - 116 min.

6月17日 新潟市民映画館シネ・ウインド

新潟国際情報大学公開講座「映画のなかの市民社会――ジェンダー・トラブル」第二弾。

重い。想いも重い。とことん重く、救いもない。良い映画だけど。

性同一障害の女の人の話。男になって女を好きになりたい女性(と世間では一般に呼ばれ る人)の話。その悲劇。実話。

その主人公を「聖なる者」として描いてないところが良い。彼/彼女は他人の物を盗んだ りするし、親切な人の忠告も聞かない。しかし、彼/彼女の問題ある性格と、彼/彼女の 悲劇は関連しない。彼/彼女と同様に問題ある性格でありながら、あるいはもっと邪悪な 性格でありながら、悲劇に巻き込まれてないヘテロ・セクシュアルな人間はいくらでもい る。彼/彼女の悲劇は彼/彼女がレズビアンであることから生じているし、それは彼/彼 女の責任ではなく、100パーセント社会の側が悪い。

こんなネブラスカって、すごいところだなあとは思うが、じゃあ、お前の住んでるところ はどうなんだと聞かれると、反論しづらい。銃があるかないかの違いだけで、人々の心の ありかたとか、そんなに違いはないと思う。


ギター弾きの恋
Sweet and Lowdown, 1999 - USA - 95 min.

2001年6月17日、新潟市民映画館シネ・ウインド

これはいいっすよ、ノリが。

ウッディ・アレンの映画は好きなものもあれば、嫌いなものもあります。あたりまえか。でも、いくつかの作品に対しては「なんでこれを映画という表現形態にしたのかなあ」と感じます。舞台での演劇や、ものによっては小説などで表現した方がはるかに良いのになあと思う話があるからですね。

しかし、この作品には総合芸術としての映画の強さが出てますね。「勁い(つよい)」とか書くと詩か? どこがノリだ。


セルロイド・クローゼット
The Celluloid Closet, 1995 - USA - 102 min.

2001年6月11日、新潟市民映画館シネ・ウインド

新潟国際情報大学の公開講座のうち、毎年シネ・ウインドでやっている「映画のなかの市民社会」。今年で3年目になりました。講座の方法などについては、大学の公式ページを見てください。

初年度は「市民社会」というテーマだけで映画を選びました。去年は「ドキュメンタリー」という副題をつけたものの、テーマはやっぱり漠然と「市民社会」。ところが、今年は無謀にもサブテーマが「ジェンダー・トラブル」。はい、本当に私が無謀でした。

でも人は集まりました。これまでの講座に比べて定員に達するのが非常に早く、すぐに受講申込を締切りました。が、そのあとも「立ち見でもいいので」という方が多く申しこまれ、結局定員以上の120名まで受付けてしまいました。立ち見になった人、ごめんなさい。

公開講座としてこのテーマがどう無謀だったかは、そのうちに書きます。それに、この公開講座の企画についてジェンダーの観点から話をするようにと「新潟市女性センター・アルザ」から言われましたので、そこで話しました。7月18日でした。

それで、この映画ですが、とても良かったです。どういうふうに良いかというと、暴露ものになってないところでしょうね。こういう映画の見方として最低なのは「えーっ、あいつもホモだったのか」などというものでしょうが、そういう見方を最初から否定している編集です。

いろんな形で同性愛が隠され、差別され、その陰画として「健全な愛」だけが暴力的なまでに強制される。このハリウッドの構造がよくわかります。ただ、こうした健全さが商品としてどのように成り立ったのか、また成り立たなくなったのかということまでも取り扱ってもらいたかったとは思います。それでもやはり、これは面白いドキュメンタリーです。

いろんな映画のキャストやスタッフがインタビューに答えています。なかでも圧倒的に迫力があるのはゴア・ヴィダール。彼がノンクレジットで『ベン・ハー』の脚本に参加していたというのは有名ですが、そのヴィダールの話は面白いです。やっぱりチャールトン・ヘストンはとても単純な人間だったんだなあ(嘆息)。他には、映画『フィラデルフィア』はどうして世間に受け入れられるかという点についてトム・ハンクスが語るところも面白かった。要するに「主人公は社会にとって安全なゲイだからだ」ということなんですが、予想外に冷静な人間でした、トム・ハンクスって。考えてみれば、コメディアンから演技派に転向した人間って、こういうタイプが多いですね。でもトム・ハンクスって嫌いだけど。


グロリア
Gloria, 1980 - USA - 123 min.

2001年5月16日、新潟市民映画館シネ・ウインド

監督 John Cassavetes の傑作。主演 Gena Rowlands の傑作。ということでこの夫婦の傑作。

これでは映画評になってないな。でもまずはそういうことを言っておくべき映画だろうと思う。

この作品よりはカサベテスの他の映画、たとえば『壊れゆく女』とか『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』などのほうが完成度じたいは高いような気もする。でもこの作品は心に残る。去年『オール・アバウト・マイ・マザー』などを見ているだけに、一層これも良い作品に感じられますね。こうしてオマージュがさらなるオマージュを生み、映画の幸福な連鎖が作られて行くと。

そもそも完成度って、カサベテスの映画の場合、あんまり関係ないんだよなあ。演じる役者の頭の上の集音マイクが画面に映っているのはどの作品だったか。カサベテスの映画って、いかにも「カサベテス組」のような共同体的な空間で作られてますからね。それはこの下に書いた『トラフィック』の撮影などとはまったく違う作業なんだろうなあと思いますが、どっちにしても良い作品だったら文句はないです。

ちなみに「カサベテス組」といわれるようなグループの一員である Sam Shaw が本作もプロデュースをしています。ただ、ウエブで検索してわかったんですが、この人は "Star Wars: Episode IV - A New Hope" のサウンド・エディターもやってたんですね。知らんかった。

ついでに言うと、カサベテス組の一人であるピーター・フォーク主演の『刑事コロンボ』にも、カサベテス本人が殺人犯人で出てくる話があります。オーケストラの指揮者かな。トリック自体はたいしたことないストーリーだったし、それをコロンボが解いていくプロセスもあまり面白くはないのですが、バラを胸にかざったカサベテスはかっこよかったです。

当然、私のような世代はカサベテスを役者として知って、そのあとで監督としても知るわけですが、役者としてのカサベテスを最初に見たのは、アルドリッチの『特攻大作戦』でしょう。あ、ポランスキーの『ローズマリーの赤ちゃん』かな。ま、なんにしても、この『特攻大作戦』を未見の学生さんはいますぐビデオ屋に走ること。原題が "The Dirty Dozen" のこの映画も史上最大の名作のひとつ。久しぶりに映画館で見たいなあ。


トラフィック
Traffic, 2000 - USA - 147 min.

2001年5月14日、ユナイテッドシネマ8新潟

良いです。演出、シナリオ、撮影、編集、音響、演技、どれもすばらしい。

ドラッグに苦しむアメリカ社会を描いています。その描き方が良いです。「社会は個人の集合ですが、それは単なるよせ集めとは異なります」などというデュルケーム社会学的小賢しさを、どどーんと否定する力強い画面。映画ってこうじゃないとなあ、と嬉しくなるほどでございました。個人と社会ってこんな感じでダイレクトに結びついているんだと強く実感させます。この際、そうした結びつきが本当か嘘かはどうでも良いのですね。

驚異的なのは監督の Steven Soderbergh が打ち出している映画の方向性を、他のキャストやスタッフが軽々と実現させていることです。これは凄い。いろんなものにずれがない。たとえば、石鹸の宣伝ねえちゃんだと思っていた Catherine Zeta-Jones などは感動的なまでに演技が濃い。メキシコの刑事ロドリゲスを演じた Benicio del Toro は、この映画の演技でキャリア確定でしょう。こうしたキャストの演技のレベルの高さをどのようにすれば維持できるんだろうか。

また、都市ごとにカメラワークをはっきりと変え、キャラクターごとに微細に光りのあてかたを変える。どうすればこういうことをスタッフに細かく伝えることができ、スタッフがそれに応えることができるんだろうか。こうしたノウハウを蓄積しているハリウッドというのは、やっぱりすごいです。いろいろ問題もある映画都市でしょうが、映画製作の技術、技能、方法が積み重なっている感じがあります。そうしたものの結果としてこの名作が生まれたと思う。

あまりに誉めすぎても何なんで、ちょっと言うと、あの法廷証人を殺そうとするところはいかんですね。あそこだけ二流のギャング映画みたい。それから、この映画の画面の緻密さにも関係あると思うけど、ハリウッド映画では珍しくこの作品では監督がカメラのファインダーも覗いてるんですね。労組の問題があるんで、本当は駄目なはずですが、Soderbergh が偽名使ってカメラマンもやってます。でもまあそういうことは瑣末なことで、この映画の評価が落ちることではないでしょう。

ちなみに、アメリカの大学に行っている日本人留学生のなかには、日本人どうしで日本語で会話しているときでもデュルケームのことを「ダークハイムがね……」と言ったりするのがおります。そんな人たちは早くこの麻薬ルートに乗っけてどっかに送ってしまいましょう。


ハンニバル
Hannibal, 2001 - USA - 131 min.

2001年4月12日、ユナイテッドシネマ8新潟

面白くありません。原作も長いだけで面白くなかった。だいたい誰がレクター博士の子供の頃なんかを知りたがるんだろうか。はっきりしたキャラクターを立ち上げた小説家がときどきはまるパターンがこれですね。キャラクターにまかせて突っ走れば良いものを、そのキャラクターの生い立ちの説明なんぞでだらだらとつまらない続編を書いてしまって泥沼にはまる。

さすがに映画ではそういう面倒なところをすっとばしています。でも、こりゃあちょっと省略しすぎじゃないか。たぶん原作を読んでない人にはストーリーがわからんぞ。

まず問題なのはメイスン・バージャーが普通の人。あんなもんを敵にまわしても恐くないだろう。見てくれも性格も原作のほうがはるかに恐い。バージャーがああなった理由も原作とは違うやんけ。ちゃんと犬に食わせんかい。そういう陰惨なところをごまかすんなら、この作品を映画化するなと言いたい。ただしこんなことを偉そうに書いてますが、メイスンをノン・クレジットで演じている俳優が誰なのか、私は映画の最後までわかりませんでした。後で知りました。ごめんなさい。好きな俳優だけに、なんとなく申し訳ないような気がしましたです。

メイスン・バージャーの妹を出さなかったのもいかんだろう。ストーリーが大事なところで変わってしまっておるぞ。WWFファンの私としては当然あのキャラクターは "The Ninth Wonder of the World" CHYNA が演じると期待してました。CHYNA がどんな人かしらない人はまわりの人に聞いてみましょう。たぶん無視されるだけです。本当に知りたい人はWWFのサイトでも見てくれい。

それでこのつまらん脚本があろうことか、また David Mamet ですよ。マメットについては『RONIN』の箇所で書いているので、そこを見てほしいです。それにしても最近どうもいかんなあ、この人。

ということで、Dino de Laurentiis の製作から逃げた二人、前作監督の Jonathan Demme と前作主演の Jodie Foster は賢明だったというでしょう。本作監督の Ridley Scott については、とにかく早い復活を望むだけです。この人もどうしてこんなに覇気のない画面を撮るようになったかなあ。

ついでにいうと、Dino de Laurentiis って大プロデューサーってことになってますが、代表作ってなんだろうなあ。『デューン砂の惑星』もひどいしなあ。まさか『キング・コング』とも言えないだろうし。当然『苦い米』とか『道』はまちがいなく歴史的名作だけれど、こうした作品をプロデュースしたのは彼が30歳くらいのときでしょう。ああいう名作を作った映画人として、そのあとの自分の作品群を彼はどういうふうに思っているんでしょうね。不思議である。

ちなみに彼のプロデュース作品のひとつ、『天地創造』でアベルとカインを演じていたのは、フランコ・ネロとリチャード・ハリスで、これは本当に二人ともかっこよかったんだよなあ。松山市の映画館「OSスバル座」で中学生のときに見ました。


ギャラクシー・クエスト
Galaxy Quest, 1999 - USA - 104 min.

2001年3月25日、ユナイテッドシネマ8新潟

映画について考える前に、この宣伝文を読んでみてください。

映画史上初! 笑って、泣ける<SF映画>の誕生!!
2001年正月<スペース・フール・ムービー>が、
あなたのツボを直撃する!!

これはこの映画の配給会社 United International Pictures のウエブ・ページに書かれていたものですから、正真正銘の宣伝文句です。このコピーを読んで、この映画を見る気になりますか。ならないでしょう。なんですか、「スペース・フール・ムービー」って。「あなたのツボを直撃」されたいですか。他にもこの映画の公式サイトを見ていると、

『オースティン・パワーズ』から脈々と続く"パロディ""おバカ映画"の系譜に
ありながら、それらと決定的に違うのは、思いもよらぬ"感動"、そして、その
"心意気"に油断すると"泣き"が入ってしまうところ。"人を楽しませ、人に夢を
与える"というのは、大変だけど素晴らしいこと。ジャンルは問わず、エンター
テインメント業界に携わる人は必見! ちょっとでも気が落ち込んだら、この映画
を思い出してほしい!

などという言葉がぞくぞくと出てきます。そしてまた、

1.次の方は必ずご鑑賞下さい。
(1) 「スター・トレック」にアレルギー症状を起こす人。
(2) パロディをバカにする傾向のある人。
(3) "笑い"と"泣き"の併用で副作用のない人。
2.鑑賞後、宇宙船に乗れると錯覚しないで下さい。
3.鑑賞に際しては、先入観を取り除いて下さい。
4.直射日光の当たらない快適な劇場でもう1度ご覧下さい。

などという「ご注意」までが出てくるんですね。

ふーん、そうか、この映画は「パロディ」だったのか。「おバカ映画」だったのか。どこをどのように見たらそんな「系譜」にある映画に見えるのか。不思議である。UIPの誰がこの映画をこの線で売り出そうとしたのか知らんけれど、その人もUIPに就職できたときは嬉しかっただろうになあ。映画が本当に好きな人だと思いたい。しかし、どこをどうまちがえれば、この非常によくできた映画をこんな三流パロディ作品のように宣伝できるようになるんだろうか。本当にあなたはこの映画が好きなのか。「エンターテインメント業界に携わる人は必見! 」と宣伝文句で書いているが、もしかしたらあなたは自分自身も「エンターテインメント業界」とやらに属していると思っているのか。

さらに不思議なのは、こうした路線でこの映画を売り出そうとしたことをUIPという組織が止められなかったことだ。個人の判断(というよりは判断の停止)の結果としてこの作品がこのような悲惨な売り出され方をしたのならまだわかる。しかし、なぜUIPは会社全体でこのような「パロディくずれ」の作品としてこの映画を売り出してしまったのか。誰もストップをかけられなかったのか。いったい、会社内で何人がこの映画をまともに見たのだろうか。

この『ギャラクシー・クエスト』はよくできた映画です。たしかに『スタートレック』を想起させる設定はあります。でもパロディではありません。パロディの定義をするつもりもないですが、これはセンス・オブ・ワンダーあふれる正統派SF映画です。一部で宣伝文句に使われていたような「チープな特撮」で笑わせる映画でもありません。

テレビ出身の Dean Parisot 監督は、この難しい設定をまとまった画面にはめこんでます。えらい。Sigourney Weaver、Alan Rickman、Tim Allen などの演技もよいです。特にシガニー・ウィーバーってもう50歳だろうに、この映画では異常に若く見えます。そりゃあメイク技術やSPFXのおかげもあるんだろうけど、それにしてもすごい人です。

という映画のレベルの高さにくらべて、なんだこのUIPの宣伝の大失敗は。映画に謝れ。でもね、少しUIPのことをかばうと、この映画ってアメリカでも子供向けってかんじで宣伝されたらしいですね。だからといって、日本の配給会社までがそれに乗らんでもいいだろうに。


ダイナソー
Dinosaur, 2000 - USA - 82 min.

2001年1月25日、ユナイテッドシネマ8新潟

以前 『トイ・ストーリー2』 の箇所で、この映画の予告編(らしきもの)を見たと書きましたが、そのとおりの画面が80分続きました。すばらしいです。その画面の凄さなどということよりも、いくらかかってんだろうという素朴な疑問しか思い浮かばないほどでございました。最初の隕石落下の画面から、えらいことになってます。

その怒涛のような画面に比べると、ストーリーはあんまり起伏もなく、淡々と過ぎていきます。アメリカン・ジョークを連発する恐竜さえ許せるのなら、そこそこ楽しめる話です。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で沈みきった気分を少しは明るくしてくれたし。

ただね、やっぱり気になるのはティラノザウルスの描き方なんですね。自分たちの集団に属する恐竜はみんな同じ言葉を話して理解しあい、どんなに粗野な奴でもやっぱり仲間で、それに対してティラノザウルスたちはまったく別の存在という描き方。でもティラノザウルスだって恐竜でしょ。肉食と草食の違いで済まして良い問題ではない気がしますね。だいたい、あの原猿類のような奴らは虫や小動物を食わんのか? 良い恐竜と「えてこう」たちは家族のように(というかまさに家族として)理解しあっているにもかかわらず、彼らはティラノザウルスと会話さえかわさない。

こうした自己と他者の描き方がアメリカの子供向け映画には結構多いような気がするけれど、どうなんでしょ。子供向けってのはそんなものだよ、と言って済まして良い問題ではないと思いますが。ま、どうでもいいと思う人はどうでもいいと思うんだろうなあ。

でも「草食恐竜」と「肉食恐竜」は生き物として違うんだから、などと人々が言ってきた結果はなんだったんだ。この「草食恐竜」と「肉食恐竜」のところにはいろんなものが入りますね。「白人」と「黒人」でも、「日本人」と「韓国人」でも、「男」と「女」でも、「大人」と「子供」でも。そうした結果も引き受けますか。

この映画で適当に済ましているようなところについて、手塚治虫はとことん悩んでしまったんだろうなあ。悩みすぎたためにいくつかの作品はたしかに破綻してます。しかし、そうした悩みの結果としてまた別のすばらしい作品群が生み出されたとも私は思う。見方が甘いですか?

今回は疑問文が多いなあ。反省します。


ダンサー・イン・ザ・ダーク
Dancer in the Dark, 2000 - France / Sweden / Denmark - 137 min.

2001年1月7日、ユナイテッドシネマ8新潟

ラース・フォン・トリアー監督の「黄金の心」三部作のラスト作品。正月早々見る映画じゃなかったす。どよーんとした気分になりましたです。

異常な数のデジタルカメラを使った撮影手法や編集、脚本などを含めて、丁寧に作られているし、良い映画なんでしょう。でも私は駄目でした。大げさに言えば思想が違う。歴史に残る作品だろうけれど、私は忘れたい。主人公セルマの生き方を肯定する気にはならないし、こうした主人公を作り上げた監督の思想に同意できない。このような映画の場合、こうした見方はよくないとは思うが、でも駄目だ。見なかったことにしたい。

なにせトリアーだから、簡単な映画だとは思ってなかったですよ。『奇跡の海』という映画史上最高レベルの作品を期待していたわけでもないです。でもやっぱりこの映画の基本姿勢を認めるわけにはいかん。

セルマは自分の幸福を捨てて息子の幸福を得たのかもしれないが、そこにどういう価値を見出すのか。自分も息子も幸福になることだって可能だったはずだ。どうしてあそこまで自分を不幸な方へ、不幸な方へと追いやるのか。

ミュージカルの必然性というのはよくわかったし、その手法はとても高いレベルで成功している。「ミュージカルって変だよな。理由もなく突然みんな踊り出すんだから」というような台詞が作中にあったが、そのミュージカルの変さかげんをとてもうまくストーリーにつなげていると思う。特に列車のシーンでは泣きました。

にもかかわらず、セルマはこの現代社会ではあんな生き方以外許されないのだろうかと疑問に思う。不幸になりたいなら、勝手になればいいじゃないか。観客をまきこむな。ここが『奇跡の海』のベスとはかなり違うところか。ベスは幸福になりたくてしかたがなかったと思うぞ。

ちなみに、『奇跡の海』を見たあと数ヶ月のあいだ我が家では「ベスの生き方に照らして恥ずかしくないかどうか」というのが唯一の規範になりました。私が何か馬鹿みたいなことを言ったりすると「そんなことを言うなんて、お前はベスに対して恥ずかしくないのか」などと妻は私を責めるようになりましたです。きつかったです。


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