1999年に見た映画


こうして見ると1999年も良くわからん年だ。見た作品数も少ないし。本学の公開講座関連の「歴史に残る名作」は別格として、他にはあまり良い作品がない。

そんななかで印象深いのは『ビッグ・リボウスキー』『「A]』『ファントム・メナス』『イヤー・オブ・ホース 馬年』。おもいっきりはずれは『となりの山田くん』と『ポーラX』。色物として記憶に残るのはやっぱり『プルガサリ』。あと、これもリバイバルだけど『ケーブル・ホーグのバラード』も格段にすばらしかった。



ポーラX
ケーブル・ホーグのバラード

マトリックス
ホーホケキョ となりの山田くん
永遠と一日
スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス
交渉人
菊次郎の夏
少年
RONIN
クライング・ゲーム
十二人の怒れる男
「A」
イヤー・オブ・ホース 馬年
ガメラ3
バグズ・ライフ
パーフェクト・サークル
プルガサリ
ブギー・ナイツ
ビッグ・リボウスキー


ポーラX
1999 - France / Germany / Japan / Switzerland - 134 min.

1999年12月29日 新潟市民映画館シネ・ウインド

これが99年最後に見た映画かあ。今年は華々しく『ビッグ・リボウスキー』で明けたのに。最後がこれではちょっと悲しい。

わたしにはわかりません。こんな映画。わかりたくもないっす。好きな人だけ見てください。

ちょっと多すぎるぞ、こんな映画。一人の嫌な男が心身ともに壊れていく話。それにどうでもいいような音と絵をつけると。かつて有名だった監督が才能が枯渇して作るプロットがなくなると、このての話によくすがる。情けない。けっ。

この映画の原作『ピエール』について柴田元幸が「この小説は主人公ピエールだけではなく、作者メルヴィルまで破滅させた」とどこかで書いていた。メルヴィルは『ピエール』の出版のために借金背負うわ、世間の評価はひどいわと散々だったらしい。でも、この原作は監督のレオス・カラックスも破滅させてますね。

カラックスも作るものがなくなって、自分を破滅させたかったのかなあ。しかし、カラックスと主人公を重ねるという見方はやはり浅薄だろう。もっと他人の失敗から自分の眼力を養わないと。ほんと、何だろうなあ。このようなプロットと金の無駄遣い監督の関係は。

カラックスはもともと好きな監督じゃなかった。『汚れた血』を見たときの嫌な気分を久しぶりに思い出したぜ。こうした「壊れ者」系の映画のなかでは『甘い生活』が本当に感動的だと思うが、なぜあの映画はあれほどすばらしいのだろうか。それに比べてその他の「壊れ者」系の映画はどうしてこれほどまでにつまらないのだろうか。まじめに考えても良いような気がする。

それにしても、一人の男が壊れていく映画は本当に多いが、一人の女が壊れていくってのは少ないなあ。一人の女が「淫らになっていく」とか、「強くなっていく」というのはときどきあるが。こうした点を考えても映画という表現媒体(だけじゃないけど)が如何に男の視線から作られているかってのはよくわかる。これも一度どこかでまじめに考えないといけないことですね。もういろんな人が書いているとは思うけど。

そういう意味では名画『こわれゆく女』はいろんな意味で異質な映画だと思う。カサベテスなんかどうみても男性至上主義者だろうになあ。やっぱし愛は強いってことか。

とか書いても、この『ポーラX』が駄作だということには変わりはない。言いたいことがない奴が映画作ったり、論文を書いたりするから、この世の中がいっそうつまらなくなるんだよなあ。レオス・カラックスに限らんが。ちなみに、こんな映画にはだいたい日本の腐れ広告代理店と木瓜茄子テレビ局が金を出してます。ね、電通とテレビ東京。


ケーブル・ホーグのバラード
The Ballad of Cable Hogue, 1970 - USA - 122 min.

1999年11月25日 新潟市民映画館シネ・ウインド

やっぱり『砂漠の流れ者』と呼んだほうがいいのかなあ。かつてはそう呼ばれていましたね。しかし、いまやケーブル・ホーグっていう映画配給会社まであるし。社長さんがペキンパーのファンなんでしょうね。でも会社名としてはケーブル・ホーグで良かったよ。アルフレード・ガルシアだったら恐すぎるぞ。「アルフレード・ガルシア配給」とかポスターやチラシに書かれると、いったいなにを配給しておるのじゃ、とか思ってしまうよね。

これはすごくいい映画であります。是非見てください。しかしこういう種類の映画も誉めるのが難しい。コメディでもないし、悲劇でもない。ましてや普通の西部劇でもない。人生の意味を謳いあげるわけでもなければ、錯綜とした現実を深くえぐるわけでもない。でも、この映画を見ると、なにかの価値あるものを見せられた気にはなる。ま、そんな大げさなもんでもないんですけどね、本当は。でもいいのよ。サム・ペキンパーにしては傍流だけど傑作だなあ、やっぱり。ジェイソン・ロバーツはじめ、俳優さんたちもみんないい。 全員が脇役みたいな映画だけれど、それぞれがとても良いのよ。銀行家も駅馬車会社の社員も。売春婦も詐欺師も。大人も子供も。男も女も。馬鹿も利巧も。

十数年前に見たときはとても良い映画だと思いながら、ラストにちょっと納得しなかったのだけれど、今回は「やっぱりこのラストしかないよなあ」としみじみしてしまった。俺もおっさんになったぜ。



Z, 1969 - Algeria / France - 128 min.

1999年11月20日 新潟市民映画館シネ・ウインド

新潟国際情報大学 公開講座「映画で見る市民社会」の番外編。講師は不肖わたくしでありました。初夏の公開講座本編のときに司会としてしゃべりすぎたかなあ。そんなにしゃべりたいのなら一回担当してみろ、ということになりました。本当にたくさんの方にご来場いただいて、深く感謝しております。

それでこのコスタ・ガブラスの傑作ですが、僕は小学校2年のころ映画館で見てるんですね。確か同時上映が『パーティ』だったか。ピーター・セラーズですな。『Z』はその後、大学時代にどっかの名画座あたりで見たような記憶があるけれども、今回見ても、やっぱり印象的だったのは初めて見た時に印象に残ったシーンでした。最初に見たとき子供心にもびっくりしたのはラストでした。しかし、同時にとても強く印象に残ったのは、政治家や軍人が取り調べられた後、出口のドアを間違えてみんな同じように鍵のかかったドアをがちゃがちゃと開けようとするシーンであります。なぜかあのシーンの印象はつよい。今度もえらく感動してしまった。泣かなかったけど。

この映画については、公開講座のときにいろいろ話してしまって、その内容をここで繰り返すのも芸がないし、あんまり書くことはありません。ただ、ギリシャの歴史ってのは本当に面白いなあとは思いますね。ところが、この映画は架空の国だということになっていて、だからこそ固有名詞がほとんど出てこない映画にはなっています。人名くらい出しても良いかとも思うけれど、人名だって強烈に所属している集団を表しますからね。たとえば架空の国のお話の主人公が「おづやすじろう」という名前だったりすると、それは誰が考えても日本が舞台になっているということになりますわね。今回この映画を見て、そんなことも考えました。これは最近、田中克彦さんのものを連続して読んでいるせいでしょう。

というわけでギリシャと固有名詞の関係なんぞをつらつらと考えさせる映画かと言うと全然そんなことはなくて、非常に真摯に政治について考えさせる映画であります。一応ジャンル分けすれば「政治サスペンス」ということになるんでしょうが、それ以外の面でもとても面白いですね。ただ、イブ・モンタンの回想シーンが断片的に挿入されますが、そこは良く意味がわからん。作ったほうも深く考えてないんじゃないか。

ジャーナリスト役のジャック・ペランが製作してます。いかがわしいジャーナリスト役にそれまでのおちゃらけ青春スターのイメージが妙に合っていて面白い。でも、こんな映画を作ろうとするなんてまじめな人なんだなあ。時代のせいもあるだろうけれど。

俳優の面で言えば、なんといってもジャン・ルイ・トランティニャン。異常にかっこよい。間違いなく彼の映画のなかでは一番かっこいいでしょう。『暗殺の森』以上です。表情は動かないし、怖いし、迫力あるし。台詞もえらく早口だぜ。彼のファンでこの映画を未見なら、これまでの人生を恥じるべし。

彼女の政治性も考えれば、イレーネ・パパスも非常に意味深い演技を見せます。私はこの女優さん、結構好きなんですね。『エボリ』も良かったよねえ。それにしても『エボリ』っていう邦題はないんじゃないか。『神はエボリでとどまりぬ』だろ。この悲劇はエボリの向こうでの話でしょうが。


マトリックス
The Matrix, 1999 - USA - 136 min.

1999年10月3日 新潟シネマ1

予告編見ただけで十分っす。ということは、一部の画面はかっこいいけど、ほかは大したことないっていうことです。画面は確かに気持ち良い。が、ケチるなよ。もっとじゃんじゃん人が空を飛び、銃弾はスローモーションでびゅんびゅん迫ってくるかと思ったが。

そういうわけで、私は『ファントム・メナス』の方を強く支持する。

こんなこと言うと、本当に人に嫌われるかもしれないけれど、この映画を楽しむのは素人か、そうでなければとことん映画を見尽くした人だろうなあ。『フィフス・エレメント』はどう見たって『ブレード・ランナー』のフランス版パロディなのに、あれは立派な名作であると誉める人は、おそらく『マトリックス』もオリジナルな映画として誉めるんだろう。そうでなければ、映画マニアが細部にやどった神を称揚すると。すごい金持ちで、ふだん贅沢なものばっかし食ってる人が「げその唐揚げって美味しくて好きよ」って言ってる感じかな。僕は映画を見尽くしてはないけど、ふだん映画を見ないわけでもないので、この映画は中途半端であんまり楽しめませんでした。

ストーリーも浅いし弱い。とことん弱い。小川直也の前に立つ橋本真也のように弱い。この続編作ったって、もう先は見えているような気もするが、でも適当にやってください。

本当は映画の中のぱくりとパロディとオマージュとの関係について書こうと思ったのだけれど、この映画の中身を思い出しているうちに、だんだんどうでもいい気持ちになってきたので、やめます。


ホーホケキョ となりの山田くん

1999 - 徳間書店・スタジオジブリ・日本テレビ放送網・博報堂・ディズニー - 100min.

つまらん映画。その映画自体のつまらなさとか、作られ方のつまらなさとか、宣伝方法のつまらなさとか、一回書いてアップしたのだけれど、いっそう腹が立ってきたので、怒りのあまり消してしまったぜ。それくらいつまらない。駄作。ごみ。本作に関わった者はすべて無能である。そうでなければ守銭奴か詐欺師。ま、全部かな。見た日付も思い出したくない。原作者に謝れ。こんなものをうれしがって配給してたら潰れないほうがおかしいぞ、松竹。


永遠と一日
Mia Eoniotita Ke Mia Mera (a.k.a.,Eternity And A Day), 1998 - Greece / France / Italy - 134 min.

1999年8月5日 新潟市民映画館シネ・ウインド

これは印象が薄い。早く書いておかないと、はっきり言って忘れてしまうような映画でした。それはやっぱり次のようなことと関連してるんじゃゃないか。

東欧などの旧共産圏や南欧で政治的・民族的な紛争が起こっている地域を舞台として、初老のインテリが、その紛争のために天涯孤独になった少年と一緒に暮らすはめになり、最初は面倒がっているのだけれど、そのうちに心を通わせて行く。ところが現実は過酷であって、話はどんどん悲劇的になっていく。あるいは、現実はけっこうぼろいもんであって、そうした紛争地域にも人の情は満ち溢れ、その少年は暖かい食事とやわらかいベッドを、少なくとも当分のあいだはあてがわれることになっていく。

こうした話の映画が多過ぎないか、最近。そんでもって、主人公の初老のインテリってのがおうおうにして不治の病におかされていたり、実の家族との精神的な断絶があったりするんだよなあ。不治の病におかされるってのは、話をわかりやすくするためにとか、そうした地域の状態を象徴的に示すために、なんていう理由で設定しましたって言われるとそれで納得してしまうけど。でも、インテリだから家族に理解されないってのはなあ。少なくとも日本ではそんな図式成り立たんしなあ。インテリじゃなくても家族に理解されたりしてないぞ。それに主人公が一緒に行動することになる子どもがみんな少年だけど、これが少女っていう映画はあんまりない気がするぞ。女の子にするとなにかまずいことでもあるのか。突然ロリコン映画っぽくなってしまうからかなあ、やっぱり。

などと考えていると、こうした類の映画では、どうしても理想的な家庭像が画面の隙間から浮かび上がってきて、それが鼻についてしまう。かつてあったはずの穏やかな家庭、ヨーロッパ的な良き家庭、戦乱で破壊されないはずの家庭。そんな家庭像かな。『大草原の小さな家』を見るときの不快感に近いかも知れない。

まあ、そんなことを考えるきっかけにはなった映画でしたが、それでもこれはひどく退屈な映画だった。2月に見た『パーフェクト・サークル』も同じタイプの映画ではあるけれど、あっちのほうがはるかに真っ当。どうした、アンゲロプロス----と、ここまで書いて気づいたけど、あ、そうかあ。これはアンゲロプロスだったんだよなあ。

であれば納得はするなあ。これはアンゲロプロス流の「ロードムービー」なんだと考えれば、いつもの映画ではあるんだよなあ。『ユリシーズの瞳』の延長線上に乗っかってるわけですね。

でもやっぱり、納得はするが推薦はしたくない映画である。


スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス
Star Wars: Episode I - The Phantom Menace, 1999 - USA - 131 min.

1999年7月20日 新潟シネマ1

疲れた。でも面白かった。

どうして疲れたかというと、単一時間あたりの単一画面に出てくるものが多すぎるのよ。それにディジタル合成のシーンばかりだから、どこをどう見ていいのかよくわからんし。やっぱりピントは適当にぼけててもらいたい。たとえば、Jar Jar たちとロボットの野戦シーンは、うじゃうじゃといろんなものがくっきりと画面のなかで動いていて、気持ち悪くなりそうだった。何が起こっているのか、何が言いたいのか、どこが画面の中心なのか、よくわからんかったぞ。あのシーンに比べたら New Hope の格納庫のシーンで、画面の奥のほうに立てかけてあった書き割りのXウイングファイターの方が微笑ましく、また映画の<センス・オブ・ワンダー>があふれていて、好きだ。まったく同じ意味で、ディジタルの Jar Jar より、ぬいぐるみのチューイの方が好きだ。うがー。

お話は面白い。画面のうじゃうじゃさ加減がストーリーにも反映しているようで、よくわからん加減が良。いきなり「これはお話しの途中です」っていう感じで始まるところも良。おいおい「エピソード1」でしょうが、とか思ったぞ。

アナキン・スカイウォーカーも、他の映画だったら「何じゃこの偉そうなガキは」と怒ることになるんだろうけれど(このての不愉快なガキ、アメリカ映画では多いじゃないですか)、こいつも将来はダース・ベイダーだしなあと思うと納得してしまう。

ほかにも、以降のお話に続く、人間・ロボット・惑星・風景・音楽・台詞・制度・思想・ばけもん、といろんなものが断片的に、本当に断片的に出てきて、こういうものにも結構疲れてしまった。けど、やっぱり面白い。

ただ、この話ではロボットが人を殺していたけれど、New Hope では人が人を殺していたぞ。どう説明するんだろうか。楽しみである。

この映画にケチをつけるとすれば、オープニングの画面。これは期待してたのに駄目だった。New Hope ではスター・デストロイヤーだったじゃないですか。あのびっくり画面のようなものを待ってたのに。あと、ライト・セイバーはやっぱり両刀では駄目よ。動きが軽い。私は三沢光晴ファンだが、三沢ではベイダーに勝てないってのは全日本プロレスだけの話じゃないぞ。

それにしても Sache という役の女優が Sofia Coppola だとは気づかなかった。目がでかいやつだなあとは思ったが。こんなところにも Star Wars と Godfather を結びつけるものがあったなんて。コッポラとルーカスの関係もどこまで続くのか。でも考えてみれば、このふたつのシリーズ自体が双子みたいなもんだし。

そういえば、ルーカスは監督できるようになったんでしょうか。組合かなにかの問題で彼は監督業はできなかったんじゃなかったか。調べるのも面倒だけど、誰か知ってますか。


交渉人
The Negotiator, 1998 - USA - 138 min.

1999年7月10日 新潟シネマ3

期待してたんだけどなあ。これも予告編にだまされました。

見る前は、何が本当で何が本心なのか、さっぱりわからないような理屈っぽい台詞劇かと思ってたのよ。ぜんぜん違っておりました。ごめんなさい。ただの警察アクションでした。ストーリーも簡単すぎ。ひねりなし。俺が小学校五年生のときに宿題で書いた河童の絵本の方がまだひねってるぞ。

ケビン・スペイシーは確かにかっこいい。でも、それだけ。あ、あとはシカゴが舞台だったのでちょこっと懐かしかったか。でもシカゴ市警ってそんなに腐敗してんのかなあ。ちなみに、この映画の元ネタになった事件はセントルイスでのことらしいです。


菊次郎の夏
1999 - バンダイビジュアル、TOKYO・FM、日本ヘラルド映画、オフィス北野 - 121min.

1999年7月4日 万代東宝プラザ

北野武が死と暴力を描かない作品、ということで見に行ったけど、やっぱり印象に残るのは死と暴力でした。

しかし好きな映画。これもロードムービー。ただ、ビートたけし演じる主人公はやりすぎでしょう。水泳の練習のシーンでしらけてしまった。バス停のシーンも同じ。そういった主人公のオーバーアクションをのぞけば、とても良い映画だと思う。主人公以外のキャラクターがすごく良く作られている。子役も良いし、麿赤児も凄い。などと考えていると、主人公のまわりの人間を描くために、わざと主人公をあんなに杜撰に作ったのかなあと思うほどではある。


少年
1969 - 創造社=ATG - 97min.

1999年6月28日 新潟市民映画館シネ・ウインド

1999年度 新潟国際情報大学 公開講座「映画でみる市民社会」の最終作品。大島渚ですよ。最近の学生には、テレビの擬似討論番組で突然ぶち切れる壊れたおっさんとしか認識されてないであろう大島。その彼の代表作ですな。

正直言って、大島の作品には好きなものは少ない。昔、文芸地下かどこかで特集見て、これは馴染めんと思った記憶がある。『戦メリ』も好きじゃない。しかし、この『少年』は傑作だと思う。久しぶりに見てもやっぱりそう思った。

当たり屋一家のロード・ムービー。以前見たときは「アンドロメダ」にえらく感動した記憶があるが、今回見たら、そのシーンよりも、「餡パン15個」と「勝ってぇぇ来ぅるぞぉと勇ぁまぁしぃくぅぅ」にびっくりした。正確にはおぼえてないけど「僕はもう痛いと嘘をつく必要はありませんでした。本当に痛くなっていたからです」っていうのも来たなあ。何が来たのかは言いたくないが。

小山明子は品がありすぎって気もしたけど、でもやっぱり良い。渡辺文雄もはまりすぎていはいるが良い。とんかつを差し出すシーンもちょっと来たなあ。

講師は石川真澄先生。60年代末の政治意識の変動とこの映画を結びつけて、ちゃんと面白く1時間30分しゃべるってのは流石だなあ。いや、感服いたしました。

なんだかんだ言って、この公開講座、毎回終了後、受講してくれた人たちや講師の先生らと遅くまで飲んだくれてしまったけど、本当に楽しゅうございました。いや、飲み会だけでなく。講演や映画鑑賞を含めて、本当に企画して良かったと思います。とかなんとか言いながらこの日もいったい何時まで飲んだんだ? 毎回、決まったように一軒目はシネ・ウインド近くの『エチゴビール・ブルーメ』。ここでまずスタウトで乾杯する、と。このスタウトは美味いよなあ、ほんとに。看板までここにいて、その後は古町界隈か新潟駅前。新潟を知らない人のために書くと古町というのは飲み屋の大量に集まった一郭ですね。この夜はどこに行ったんだったっけ。<カムラード>か? いや<ふるふる>かな? 『クライング・ゲーム』の後は高瀬さんと我々夫婦で新潟駅の近くの、美味しいけど微妙にあやしい焼肉屋に行ったなあ。

『十二人の怒れる男』のところにも書いたけど、私はこの公開講座の司会を全回で担当しました。でもいつもしゃべりすぎたのよ、私。そしたら秋に公開講座を一回するから、そのときに全部話せ、と言うことになりました。口は災いのもとっちゅうやつです。ちょっと違うか。映画はコスタ・ガブラス、『Z』。何を話せば良いのだろうか。好きな映画だけど。そのうち、感想書きます。 


RONIN
Ronin, 1998 - USA - 118 min.

1999年6月19日 新潟シネマ3

はい、面白くありませんでした。見る必要ないです。

こういうこと書くと製作会社や腐れ広告代理店から怒られそうだけど、でも、ほんとだもんね。デ・ニーロが出ようが、ジャン・レノが出ようが、でっかい予算かけようが、カスはカス。ジョン・フランケンハイマー、お前は阿呆か。

だいたい、ハリウッド映画で日本語をタイトルにしたものにはろくなもんがないなあ。日本が舞台になってたり、日本的なものが登場するものも同じ。映画表現の「国際性」や「民族性」ということを考えれば、そして、僕が日本人である、ということを考えれば、これは当然かもしれない。しかし、本当はもっと複雑な問題があって、このあたりの事情は、『デルス・ウザーラ』以降の黒澤映画がどうしてつまらないか、などということとも関連するな。『ラスト・エンペラー』や『砲艦サンパウロ』を中国人が大笑いしながら見てるってのは、容易に想像できるし。でもこっちには『敦煌』っていう最終兵器があるぞ。なんと言っても、日本語しゃべる中国の大英雄が出てきて、それが西田敏行だぜぇ。でも、なんの最終兵器なんだか。

ジョン・フランケンハイマーはやっぱり60年代でキャリアを終わらせておくべきだったなあ……と感慨にひたりながらも、いったいどんな奴がこのひどいシナリオ書いてんだろうと調べてみると。がーん(死語)、これが開けてびっくり、玉手箱。以下、その顛末(というほど大げさなものじゃないけど)。

クレジット・タイトルによると脚本は Richard Weisz と J.D. Zeik という二人が書いてます。そんでもってこの二人には他の作品がまったくないのよ。ところが、この Richard Weisz ってのが David Mamet なんですね。別名というか偽名というか、まあへんなことをしておるわけですよ。理由はわからん(本当はわかるような気もする)。これはびっくりしましたねえ。なんだこりゃあ。とにかく、この大駄作をあの David Mamet が書いてたんですよ。さらに、この David Mamet は他にもうじゃうじゃといろんな映画の脚本を書いていたんですね。知らんかった。わしは本当に知らんかった。

いろんな映画の脚本を書いている Mamet という人間がいるなあ、という知識は正直申しまして、私にはありました。ところが、その Mamet と David Mamet が同一人物だとは気づかなかった。私は迂闊でした。阿呆なのはフランケンハイマーじゃなくて越智敏夫でございます。現在、「そうかあ、そうだったのかあ(嘆息)」状態です。

David Mamet といえば戯曲『オレアナ』です。MS-IME98 は『俺穴』と変換したけど、まあとにかく、あの『オレアナ』ですよ。知識人の他者理解のしょうもなさと、アメリカにおける性的役割分担意識のしょうもなさを、錯綜した台詞で描きつつ、その台詞のずれの中から作者の深い人間理解をうかがわせるっていう、これはなまなかなものではないつくりの『オレアナ』。他の作品でも、同じひとつの言葉を、それぞれの登場人物がどのように理解・誤解するか、そしてその差異は何を生み出すかということについて、観客の言語意識さえ意識させるような、これはもうほとんど独壇場とも言うべき作風。シカゴ知識人の一人でもある Mamet はこうした作品を書いていて、本当に偉い人であります……って思っていたのよ(ただし、このあたりの評価には妻からの受け売りが入っています。私の妻が『オレアナ』を好きなんですね)。

ところが、そのインテリ作家 Mamet がこのすかたん脚本家 Mamet ですよ。まさか同一人物とは知らなかったです、はい。

じゃあ、こいつどんな映画を書いたっけ、とちょっと調べてみると。出るわ、出るわ、そうかそうか、こんな奴だったのかあ、と自分の記憶力のなさを嘆きながらも、なんか納得してしまったぜ。

どういう奴かというと、まず1981年に The Postman Always Rings Twice 。そこそこのうまさを見せて映画脚本家としてデビューしますね。これは許そう。その後が82年 The Verdict ですよ。まあ、ポール・ニューマンにやっとオスカー取らせたのかな、あれで。あ、無理だったのか。Color of the Money かな。ま、とにかく The Verdict は、法廷劇としては結構おもしろかった記憶がある。ところが、87年の The Untouchables あたりから気配がおかしくなり、台詞はさすがに良いが、でももっとGメンってかっこいいんじゃないかあ、いったいこの後半のストーリーは何が言いたいんだあ?と観客を不安がらせ、89年の We're No Angels ではボガード・ファンのみならず、ショーン・ペン・ファンまでを愕然とさせます。あれはニール・ジョーダンも悪いけど。やっぱり脚本にも問題はあるよなあ。

時代は下って92年。Malcolm X と Hoffa を同一人物が脚本を書いていて、それが David Mamet であるということが何を意味するのかということについては、みんなもっと書いていいと思いますね、まじめな話。もう誰かが書いてるのかな。アメリカでは常識的なことなのかしら。日本で誰も書かないのなら、俺が書くぞ。って時間があればの話だけど。

とどめは93年、Rising Sun であります。そっかあ、あの脚本を書いた奴だったのかあ、お前はすごい谷津だあ……ってプロレスファンにしかわからんギャグを言いたくなるほど腰が抜けたぜ。

こうなるとやっぱり94年の Oleanna は見ておくべきでした。ごめんなさい。見てないです。原作戯曲が有名なだけあって、見てもつまらんだろうなあと勝手に思い込んでおりました。監督までやってるみたいです。降参です。機会があれば、ぜひ見てみたいです。それからこの人についてはもう一度考えてみたい。

ただし、このキャリアは個人的な好き嫌いを抜きにすれば映画脚本家としても立派なものです。上では僕も結構悪口ばっかし書いているが、これらの作品を並べてみれば、一般的には劇作家としての名声をさらに高めることにはなろう。しかし、ああた、ここで Ronin ですよ。すべてぶちこわし。

こんな駄作をあの Mamet が書いたのかあ、と一生のあいだ(どころか本人が死んだ後も未来永劫)言われ続けるのは、やっぱり嫌だったんでしょうね。脚本家や小説家が偽名を使う場合にはいろんな理由があるんだろうけれど、この駄作の場合にはその理由が、なんかすごくわかりやすくて哀しいぞ、俺は。もしかしたら、もっとぜんぜん別の理由があったのかなあ。誰か知っている人いたらメイルください。

それにしても、今回は作品の質よりも、Mamet で盛り上がってしまった。盛り上がっているのはお前一人だと言われるのはわかっている。わかっているが、盛り上がってしまうのが人間だろう。大げさなことを書きながらも、こうしたことが簡単にわかるのも、 AMG All Movie Guide のおかげだと思い至って、しみじみと冷静にもなるなあ。あんなもんロハでつかわせてもらっていいのかな。インターネットの罠かもしれんが。皆さんもあのサイトを覗いて人生の貴重な時間を無駄にしましょう。んなこと言いつつ、僕がこんな駄文を書き、どこぞの誰かが読んでくれる。インターネットの阿波踊り状態だなあ。同じ阿呆なら書かなきゃ損損。そうしてフランケンハイマーと越智は阿呆になっていくのでした。いっしょにしてごめんね、ジョン(って何様だあ>俺)。


クライング・ゲーム
The Crying Game, 1992 - Ireland / UK / USA - 112 min.

1999年6月8日 新潟市民映画館シネ・ウインド

ニール・ジョーダンの力作。1999年度 新潟国際情報大学 公開講座「映画でみる市民社会」の第三作。正直言って、企画者として上映するのが一番怖かった作品だけれど、私自身がもう一度映画館で見ておきたかった度合の一等高かった作品。こういうところに自分のわがままを反映しつつ、より良い公開講座にするのが精神衛生上、もっともよろしい。勝手な論理かな。

そんでもってこの作品を見直してみると、やっぱり良い。ネタバレ厳禁の映画だから、細かく言うことはできないが、誰かを好きになるということは、自分自身が変わることだ----当たり前のことだけれど、それをこうしてIRAという、とことん政治的な話の中でまとめているというのがうまい。市民社会を構成する原理の一端にも確実に触れつつ、<政治>とは何かということもついつい考えさせてしまう作品でもある。そのうえ、というか、だからこそストーリーもよくできているように感じられるのだなあ。

ネタバレ厳禁のネタも、こうしてもう一度見直してみると、観客に「ねえねえ、わかってよ」と言っている感じでヒントは多い。未見の皆さん、注意して見てみましょう。友人の中には「あんなの、簡単よ。すぐわかるわ」と言っているやつもいたけど。

俳優もみんないいっす。Stephen Rea の役名がファーガスってのも良いなあ。ちょっとキザな私事っすけど、この名前はシカゴ時代の友人(クリス、元気?)の愛犬の名前といっしょ。クリスがアイルランド系という出自にこだわっていただけに(少なくとも僕にはそう見えた)、ファーガスってのは典型的なアイリッシュな名前なわけね、と妙に納得してしまった。映画の中ではこのファーガスという名前(とその変遷)も、とても重要な意味をもつし。

Forest Whitaker も相変わらずいいなあ。この俳優さんは『ハスラー2』で初めて見てびっくりしたんだけれど、その後も快調にとばしてるなあ。はずれは『スモーク』だけか。あれはひどかったなあ。あ、『スピーシーズ』もあったなあ。こうしてみるとあんまり映画を選ばない人なのかな。

講演のほうは高瀬昭治先生。こういう講演会を企画すると、この先生はどんな内容の話をするんだろう、とか企画者としては無責任に期待してしまうのが常である。ところが、今回はなんと言っても『クライング・ゲーム』である。加えて全体のテーマは「市民社会」である。「どうすんだろ?」と、ほとんど怖いもの見たさのような状態で司会をしましたが、いやあ、さすが森羅万象なんについてでも知っている高瀬。縦横無尽に映画を語り、アイルランドとイングランドの関係、その他、ネタバレ厳禁事項も含めて、とてもおもしろうございました。ちょっとでも不安がった私が愚かでありました。ごめんなさい。でもまったく関係ないが、私の妻は高瀬さんのことを「セラヴィ高瀬」と呼ぶぞ。ま、本人の前で言ってるからいいか。それに酒飲むとフランス語でくだまきはじめる高瀬さんも悪いよなあ。誰かフランス語で彼に応対してくれいっ。ぼあ・ら。

ちなみに、今回『戦艦ポチョムキン』をシネ・ウインドでは見なおさなかったのでこのページに感想はあげてないけれど、その映画についての講演は市岡政夫先生に頼みました。ゲストでアレクサンドル・プラーソル先生にもお話ししてもらいました。両者の掛け合いで、これも興味深い講演になったと思います。やっぱり市岡さんの世代はこの映画を冷静に見ることはできなかったんだなあ。そうじゃなきゃ、大学で露文を選んだりせんかな、やっぱり。一方、プラーソル先生は中学のころ修学旅行で『ポチョムキン』を見にいったそうで、そのときに感じたことについて話していただいたところは、ゴルバチョフの顔なんぞを思い浮かべさせ、僕にはとても面白いものでありました。


十二人の怒れる男
12 Angry Men, 1957 - USA - 95 min.

1999年5月16日 新潟市民映画館シネ・ウインド

1999年度 新潟国際情報大学 公開講座「映画でみる市民社会」。記念すべき第一作。この公開講座は映画と講演をむりやりひっつけたもんです。企画者としてこだわったのは、

 35ミリのフィルムで映画を上映すること
 一般の映画館で上映すること
 一本の映画を複数回上映すること
 同じ映画館で別の時間に講演会もひらくこと
 いやいや講師を引き受ける人間には頼まないこと

そういうことで企画したので、シネ・ウインドにも迷惑をかけてしまった。講師を引き受けてくれた教員にも無理を言った。大学の事務局にも本当にいろいろ面倒なことをお願いした。でも、結局、この講座は成功だったと思う。人がたくさん集まったとか、地元のマスメディアがたくさん取り上げてくれたとか、そういうこともたしかに成功のメルクマールにはなるとは思う。しかし、やっぱり講演の内容と映画の内容が良かったよなあ(自画自賛)。俺は司会として話し過ぎたかもしれんけど。

全体のテーマは「市民社会」。はやりだもん。それに協力してくれたのは、何と言っても 市民 映画館シネ・ウインドだし。そんでもって選んだ作品は『十二人の怒れる男』『戦艦ポチョムキン』『クライング・ゲーム』『少年』。いいラインでしょ。それらを各2週間、土曜日〜金曜日×2、シネ・ウインドでモーニングショーとレイトショーと一日2回、計28回上映すると。そして、それらの作品を見てくれている(はずの)受講生を対象にして、映画終了前日の木曜日の夕方に同じ場所で講義をする。こういう企画にしたんですね。幸い、定員100人もすぐに埋まりました。めでたし、めでたし。

でも、映画を決めるまでとか、本当にいろいろあったなあ。僕はイベント屋には向いてないっすね。自分の適性とか転職の可能性とか、明るく悩みつつ企画していた日々でした。ま、過ぎてみればすべては美しい(c)沖田艦長(かな?)。

そんでもってこのシドニー・ルメット監督の名作ですが、まあ、多くは語りますまい。でも、今回、久しぶりに見て思ったのは、こりゃあ見方によっては不条理劇じゃんけ、ということでした。ヘンリー・フォンダ演じる「8番陪審員」がまったく論理的じゃない。場合によっては脅し、場合によっては情に訴え、あの手この手、こいつ、本当はとんでもない悪人じゃないかあ、と思わせるほどである。そういうふうに見れば、ヘンリー・フォンダの顔って、すごい悪人面にも見えるし。そんな役を演じた映画もありましたね。でも、最初に見たときの感動がよみがえってきたのも確かである。

ただ、あの老人の陪審員の鼻のわきに、メガネをかけた跡がついていて、それをカメラは結構しつこく写しているように見えたのだけれど、もしあれがメガネの跡で、それをルメットは意図的にそう見えるようにうつしていたとすれば、これは結構いろんな読み方ができますよね。とことん怖い映画にも見えたりするなあと思いましたです。見てない人には何を言っているのかわからないでしょうが、ちょっと誰かビデオで見て確認してみてくれないかなあ。

講師を引き受けてもらった本学の内山鉄二朗先生の話もとても面白かった。戯曲としての『十二人の怒れる男』とこの映画の関連を、意外な点から説明してくれた。このあたりは実際の50年代アメリカの演劇状況を知っているからこその話だろう。「3番陪審員」を演じるリー・J・コブがらみの話から、そういう展開の話をしていただいたが、いろいろ知らないこともあったし(あたりまえだ)、第一回の講演としてはとても良かったと思う。


「A」
1997 - 安岡卓治/「A」製作委員会 - 130min.

1999年4月24日 新潟市民映画館シネ・ウインド

麻原はじめオウム真理教の幹部連中がみんな逮捕された後に、そのオウムの広報を担当することになった荒木君を中心としたドキュメンタリー。

上映した映画館のシネ・ウインドが、監督の森達也さんを招いて会場の人たちも交えた討論会をやりたい、と。その司会役を頼まれた。結局、プロデューサーの安岡卓治さんも来てくれて、土曜の最終回の上映後、深夜の12時くらいからトークが始まりました。全部終ったのが午前3時半くらいかな。会場からの発言も面白かったし、在家信者らしい人からの発言もあった。森さんと安岡さんの真摯な発言のおかげで、僕の拙い司会にもかかわらず、本当に意味のあるものになったと思う。

討論会後、主催者、関係者、参加者有志など、みんなで新潟駅前「魚民」へ。ここは朝5時までやってるが、本当に5時までいて酔った頭で朝日を見たのは初めてだった。朝まで外で飲むこと自体が久しぶりだったしなあ。私の妻も途中参加したが、考えてみれば妻と朝まで飲むのも初めてだなあ(慨嘆)。

が、この映画について文章にするのはつらい。当然だけど、「A」というのはオウムのA、麻原のA、荒木のA、いろんなものの「A」である。そうした複数の「A」はまともじゃない。しかし、そうだからといって、それをとりまく日本社会はまともなのか。麻原への信仰を正当化する出家信者と、他人に君が代を歌うことを強要する中学教師に差があるとすれば、どういう意味において差があるのか。

オウムの信者をあからさまに違法逮捕する刑事(こいつの顔がすごい。どういう意味ですごいかは是非映画を見てください)や、脳味噌腐って発酵状態の大手テレビ局などの、まともでなさ加減は、これはもうはっきりわかりやすくて笑えるほどなんだけれど、やっぱり問題なのは、一般市民の行動と意識だろう。犯罪者集団の人権は制限されるべきなのかという問題にしてもいいのかもしれないが、正確に言えば、彼らは犯罪者集団だと国家が認定した集団の残り滓にいまだ所属している人たちであって、そういう人たちの人権なんか、殺された人たちのことを思えば、無視しちゃっていいのよ、とはならないだろう。われわれの社会は誰が作っているのか、その社会はまともなのか。私はまともなのか。誰がまともと決めるのか。

どっちかが完全に悪くて、反対の側は完全に正しい、というような単純な見方を監督の森さんも製作の安岡さんも当然否定しているのだけれど、じゃあ、みんなはどうするかっていうところで、会場の中の意見は分かれました。でも、やっぱりオウムってひどい集団でしょという結論で終らせたい参加者もいた気配もある。

そもそも、信仰って何、という設問をはずしてこういうことは考えられないし、信仰が社会の構成原理と密接に関連しているイスラム社会などでなければ、行為としての信仰が反社会的になることは頻繁にありうるわけで、そうしたときの信仰の意味や帰結を考えざるをえない。会場ではそうしたことについて議論できて、その点に関しては、単にオウムを好き、嫌い、といった不毛なことにならないで良かったと思う。

個人的にはもっとこうしたことについて考えていることはあるが、きりもないので、また別の機会に----って最近、それが多いなあ。反省しております。

しかし、TBSに限らず、マスメディアってのはここまでひどいのかっていうのは、会場にいた人は感じたんじゃないかなあ。マスメディアは腐っていると、みんな思っていても、あからさまには批判しないよなあ。でも、これも考えてみれば当たり前で、批判する主体であるはずのマスメディアが腐ってんだからなあ。

「ある意味でTBSは今日死にました」てなことを筑紫は言ったそうだけど、もしかしてTBSはある意味で今日まで死んでなかったと思ってたのか。よく筑紫は「TBSを全否定すれば、良心的部分まで否定されてしまいます。良心的報道が必要です」とか言う。この良心的部分に自分は入るのだと、明らかに彼が信じているのは、まあ彼の嫌な性格と無能さ加減が現れていると考えていいかもしれないけれど、この論理自体はマスメディアに携わる者として、本気ではものを考えてない、ということの表明でしかないだろう。そもそも、こういう論理の中で、もしあるとすればだけれどマスメディアの良心的部分が言い訳になって、とんでもないマスメディアの犯罪的構造が作り上げられているんじゃないですか。こうした構造をこれからも作り続けていきますよって正直に言えよなあ。

良心的報道っていうようなふりをして、オウムにビデオを見せたんじゃないのか。そんなごみにくらべれば、まだワイドショーの人間の方が確信犯的で許せるぞ。報道のふりして視聴率とメディア利権に群がっている人間は筑紫のまわりにはいないのか。それにしても、筑紫ってこんなにひどいことを言うようになってたって知らなかったなあ。他にもいろいろあるぞ。クリントン来日のときの、詐欺のような、じゃない、詐欺そのものの番組もひどかった。あの会場の一般市民のふりしたキャスティング(って言っていいよなあ)は何だ。どうしてキリンビールみたいな大手に勤めている(と彼らは言っている)人間は、わざわざ自己紹介で社名を出すんだ? どうして身体障害者をあそこで晒し者(と言っていいよなあ、あれは)にしたんだ。TBSは身体障害者も一般人として扱いますって言うことですか。どうして大阪の女は、あまりに大阪の女っぽい風情で登場して、クリントンの「不適切な関係」について予定されていたように大阪弁で聞くんだ? あのクリントン番組見た瞬間に、ああ、もうこれは駄目だって思ったなあ。

それから、筑紫はインターネットやコンピューターについてもひどいことを言っている。自分が何も知らないのなら、僕は知りませんって正直に言う、あるいは何も語らなければいいものを、「インターネットの中には便所の落書きに近いものがあるという意見もあります」って、あんたそれがプロの発言かぁ。誰の「意見」なんだ、それは。ブラウン管の中の人間はそんな言い方だけはしちゃいけないんじゃないか。「在日韓国人の中に井戸に毒を入れた者がいるという意見もあります」って、いざっていうときには筑紫は言うってことですか。

ヴァーチャル・リアリティーについても、いつかの彼の発言は8億光年彼方のとんちんかんだったなあ。そんなことだから、ウェブの中でアホ扱いされるんだよなあ。右か左かという違いはあるが、言っていることの出鱈目さのレベルは、木村某とか俵某とか、フジテレビ系のキャスターとなんら変わらんと思うぞ。などと考えると、テレビという世界においては、どのようなまともなことをしゃべるか、ではなくて、いかにもっともらしく視聴者を安心させるか、ということは、いかに馬鹿な脳味噌にしていくか、ということだけがキャスターに要求される能力なのかなあ。そんなことはわかりきってんだよ、今ごろ何言ってんの、とかいろんな人間(特にテレビや広告関係の奴等)に、言われそうで不愉快です。

ま、とにかく。こんなことを書いていると、やっぱり、赤坂で飲んだときにはTBSビルの中でちゃんとゲロを吐いておくべきだったなあ、と後悔することしきりである。

でも、ちょっときざなことに聞こえるかもしれないけれど、オウムがサリンをばらまいたとき、私はシカゴで生活していたので、あのときのメディアの状態というのは、実体験としては知ることができません。サリン事件はアメリカでも報道されました。しかしその直後、1週間はあいてなかったと思うけれど、オクラホマ・ステート・ビルの爆破テロがあって、あれで、アメリカではオウムの報道は吹っ飛んでしまいました。そういうわけで、オウムのサリン事件、またその報道の実際についてはすべて後追いの知識です。念のため、付け加えておきます。

オウムのドキュメンタリー評から、TBS筑紫批判みたいになってしまいました。説明不足のところも多いので、この映画評は書き直すのではないかという気がなんとなくしています。


イヤー・オブ・ホース 馬年
Year of the Horse, 1997 - USA - 106 min.

1999年4月23日 新潟市民映画館シネ・ウインド

これはすごいっす。ニール・ヤングとクレージー・ホースの1996年のワールドツアーにジム・ジャームッシュがへばりついて撮ったドキュメンタリー。ボケのアホのと言われながらも、その言葉に喜んでカメラをまわすジャームッシュはマゾか。でも、ただの「密着取材」になってないのはさすが。まあ、そうなるはずもないおっさんたちだけど。

「馬年」という副題は日本の配給会社がかってに付けたのかと思っていたら、ちゃんと画面に出てきた。バンド名以外にも妙なこじつけのような意味があったりして、これもちょっとびっくり。

この年のツアーの映像以外にも古いフィルムとか、他のものも混ぜてます。でもやっぱり一番かっこいいのは舞台の上の演奏。最初の始まり方も良いし、最後の名曲は聞いて泣け。

ニール・ヤングの父親がけっこう頻繁に出てきます。このじいさんがクレージー・ホースのメンバーのことを「あいつらはみんな私の子どもみたいなものだ」と言うのは微笑ましいにしても、「あいつらも昔に比べれば楽器がうまくなったなあ」としみじみ言うシーンは、笑っていいのか泣いていいのかわからんかったなあ。結局、笑ったけど。

それにしても、あのメンバー達があそこまで目茶苦茶な人たちだとは思わなかった。コンサート行ったり、CD聞いてるくらいにしておいた方がいい。直接には絶対に会いたくない人たちでした。

スーパー8で撮った画面、16ミリの画面、両方とも不気味にかっこいい。そういう意味ではニール・ヤングのファン以外の人が見ても退屈はしないと思う。これまで見たジム・ジャームッシュの映画では一番良かった。そう言えば新作の Ghost Dog は面白いのかなあ。副題の The Way of the Samurai というのが気になるが。


ガメラ3 邪神<イリス>覚醒
1999 - 大映/徳間書店/日本テレビ放送網/博報堂/日本出版販売 - 108min.

1999年3月19日 新潟万代東宝

画面は楽しめるけど、ストーリーがなあ。お気楽に見れば面白いことは面白いが、まじめに見るとつまらんぞ。怪獣映画をまじめに見てもしょうがないかもしれんけど。とにかく本作ではどうでもいいようなキャラクターの人間ばっかし。みんな早く死んでくれ、と映画を見ながら何回思ったことか。ここが前2作との大きな違いでしょう。怪獣の造形は良いが、登場する人間が屑だらけ。特に政府関係(らしい)の神がかった阿呆2人は何がやりたいのか結局最後までわからんかったなあ。ま、現実にはあんな奴よくいるけど。ラストも、「そうかあ、こう終らしてしまったかあ(嘆息)」という感じだったなしなあ。

怪獣のバトルは見ごたえあるシーンが多くて良。渋谷駅の東急百貨店の裏にギャオスが燃えながら落ちるなんてのは、みんな作りたかったけど作れなかったシーンでしょうなあ。それをちゃんときれいな画面で見せているというのは、やっぱりうまい。

しかし、怪獣バトルの中にも問題があって、何といっても最大のものはラストがわからんことですな。あえて細かいところは秘すが、2匹の戦いの最後がなにがどうなってあんな決着になったか画面だけだとさっぱりわかりまへん。プロレスで言う「疑惑の3カウント」みたい。ムックを読んで確認しないとわからないような画面にするな、馬鹿者。ここは声を大にして言いたい。だからオタクと言われるのじゃ。それに、先月、京都駅に行ったのだけれど、あの場所であの戦いは無理だろう、いくらなんでも。

ということで、徳間大映、渾身のガメラシリーズ、2勝1敗かな。


バグズ・ライフ
A Bug's Life, 1998 - U.S.A. - 96 min.

1999年3月10日 新潟シネマ1

卒論指導した学生がアメリカ土産っつうのでくれたアリのおもちゃが、この映画の主人公でした。そのおもちゃ自体はとても良くできていて立派なものでしたが、映画のほうはあんまり面白くなかった。

全編、デジタル合成アニメで、画面はすごいって言えばすごいのよ。特に昆虫の世界に降る雨粒の画像処理には感動しました。

でもなあ、いかんせんお話がつまらん。私の一番嫌いなタイプが主人公だしなあ。あれに感情移入しろって言われても無理だよ。底の浅い善意しかない無能な働きアリ。あいつさえいなければあんな不幸は起こらなかったのになあ。最初にあいつが食われていれば、何の問題もなく平和な世界が続いていたんだよ。

アリという「良い奴」がバッタという「悪い奴」に勝ったということを謳いあげたいのかなあ。でも、あの映画で描かれているアリ社会の中にはもっとひどい搾取の構造と階級社会が「自発性の結果として」作り上げられているわけでしょ。いいのか、そっちは。身内にだまされるってのはつらいぜえ。

というわけで、画面以外は退屈で、どうということのない擬似説教映画でした。

ただ、最後の「おまけ」は笑える。ああいうものは好きなんだけどなあ。あれを作ることができて、あのストーリーはないだろう。それから、悪役バッタの声、さすが Kevin Spacey 、かっこいいっす。

ところで、働きアリってみんな雌じゃなかったか。昔、理科の授業か何かでそう習ったような気がするが。

ついでにいえば、ほぼ同時期に公開されて、日本のメディアではほとんど混同されまくっていた Antz ってどんな映画ですか。面白いんでしょうか。見てないです。ごめんなさい。


パーフェクト・サークル
Svrseni Krug (a.k.a.,The Perfect Circle), 1997 - Bosnia / France - 108 min.

1999年2月26日 新潟市民プラザ(第9回 にいがた国際映画祭)

ユーゴスラビア紛争の映画。セルビア人勢力に包囲されたサラエボで製作を開始して、砲弾飛び交う街のホテルで脚本を書きつづけたらしいっす。

ストーリーはそれほど変わったものではない。世間からずれている初老の男が幼い子どもと接することで少しずつ変化していく話。多いのよ、こういうのは。『クリスマス・キャロル』だってそうだと言えるだろうし、『コーリャ愛のプラハ』だってそうですな。特にこの映画の主人公のおっさんは詩人だったりするから、はっきり言ってちょっと人間関係の描写は紋切り型でもある。しかし何といっても、その人間関係をとりまく社会が尋常じゃないので、映画自体も尋常じゃないものになっている。

とにかくサラエボの日常がすごい。一般市民を狙撃する人間というのは何を考えているのだろうか、と本当に不思議に思う。が、実際に一般市民を狙撃する日常を送っている人も紛うことなくこの世の中(というよりサラエボの周囲)には存在するわけだから、彼らも何らかのことを考えて生きているんだろうなあ。

狙撃されやすい交差点を通過するときには三人目が危ない。一人目で照準を合わせ、二人目に発砲して照準のずれを確認し、三人目を確実に殺すそうです。

彼らは人間だけじゃなくて犬まで撃ちます。幼い子どもが主人公に「なぜ犬を撃つの?」と質問するシーンがあります。はっきり言って私には答えがわかりません。その答えがわからないことに安堵する一方で、わからないと処理する自分を情けなくも思います。

主人公の娘と妻は映画の最初でサラエボを脱出するわけですが、この娘がときどき主人公の幻覚として登場するのは映画的手法としてとても良かった。

でも、こんなおちゃらけた映画評を吹き消すような力がこの映画と、この映画をとりまく状況にはあって、どうも今回は書きにくい。


プルガサリ
(ハングルわからん、すまぬ) 1985 - Democratic People's Republic of Korea - 95 min.

1999年2月20日 新潟市民プラザ(第9回 にいがた国際映画祭)

北朝鮮製作の懐柔映画、じゃない怪獣映画。円谷プロ協力。まあ85年の作品だけに、というより、円谷プロだけに牧歌的な特撮シーン続出。でも、最初にプルガサリが動きはじめるシーンはちょっとびっくりした。

高麗朝末期。他国と戦争ばっかりしてる権力者の圧政に対して農民が蜂起するわけですが、まあ、弾圧されまくってるわけですね。そんななか、権力者は農民の鍋、釜、鍬、鋤などを徴収、それを鍛冶屋に命じて兵器へと作り直そうとします。舞台になっている村の鍛冶屋のじいさんは根性があって、集められた鍋や鍬を全部農民に返してしまいます。そんでもって怒った代官はそのじいさんを牢屋にぶち込んで、鍋釜類はどこにやったのかぁ、しゃべらんとこうじゃあ、と拷問するわけですが、当然、本当のことをこの鍛冶屋はしゃべりません。連日の拷問で死にかかっているじいさんの牢屋に娘のアミはビビンパ(にしか見えんのだよなあ、これが)を苦労して投げ込みます。そのビビンパのご飯粒をじいさんは両手でこねて小さな人形を作りあげ、死んでいきます。

父の亡骸を引き取ったアミは、父の手に握られていた人形を見つけ、裁縫箱にしまいますが、その人形がとあることで命を吹き込まれ、鉄を食って少しずつ大きくなっていきます。最初は裁縫箱の中の針などをぽりぽりと食ってますが、だんだん鍋やら刀やら大砲やらわしわしと食いはじめ、しまいには巨大な怪獣となっていきます。そうなると、当然のようにそのばけもんは蜂起した農民の味方になって、悪代官やら、帝国の兵隊やら、王様やらをやっつけていくわけですね。

ちょっと『大魔神』を思わせるようなラストにいたるまで、ウルトラマンのような特撮と、北朝鮮の俳優によるシーンが妙にバランス良く合わさって、まあなんとか退屈はしないで済む映画になっています。アミを演じている女優さんも結構美人です。

ただ、このストーリーは99年に見ると、どうしても現在の北朝鮮の政治状況と比べてしまいます。本当のところはわからないけれど、日本のマスメディアが伝えている北朝鮮の様子からすれば、プルガサリが闘うべき相手はあの若社長しかないだろうという気になってしまうのですね。そういうところを考えなければ、まあ、どうでもいい怪獣映画です。

ちなみに、この映画を見終わった後は、誰に会ってもなぜか「ぷるがさりゃあ」と呼びかけたくなります(嘘)。


ブギー・ナイツ
Boogie Nights, 1997 - USA - 152 min.

1999年2月19日 新潟市民映画館シネ・ウインド

何といっても、いきなり The Emotions の "Best of My Love" で始まるもんなあ。そっからはじまって、70年代ソウル、珠玉の名曲のオンパレード(死語かな、やっぱり)。それで、タイトルバックはピンクのネオン管で書かれた文字でしょ。そんな作りだけで、もう満足してしまいました。Alan Rudolph の Choose Me を思い出したぜ。あっちは Teddy Pendergrass だけど。

1970年代後半、アメリカ・ポルノ映画業界の behind-the-scene もの。ホームビデオがポルノ業界を激変させる直前。とある男の子がポルノ俳優としてスカウトされてスターになっていく話。当然、その栄光だけでなく、没落も描かれていきます。結構長い映画。

とにかく、映画の作り方がうまい。こまかいところまで良くできているのよ。この監督 Paul Thomas Anderson をロバート・アルトマンやタランティーノと比較している批評もあったけど、うまさとかディティールで勝負するという点では確かにその線ではあるよなあ。

ポルノ映画の監督 Jack Horner 役の Burt Reynolds と、その妻役の Julianne Moore がすごく良いっす。

ところで、主人公の Dirk Diggler こと Eddie Adams を演じた Mark Wahlberg という俳優さんは New Kids on the Block のメンバーだった人かな。別人? あっちはドニーか。それとも The Funky Bunch か。兄弟かなあ。このあたりの真相(というほどのことでもないけど)を知っている方はメイルください。


ビッグ・リボウスキー
The Big Lebowski, 1998 - USA - 127 min.

1999年1月16日 新潟市民映画館シネ・ウインド

コーエン兄弟の新作。面白うございました。だいたいどの作品でも Joel Coen が監督して Ethan Coen のほうがプロデュース。この作品も同じ。

おいおい、こりゃあなんじゃいな、というようなシーンや台詞も後から考えると、ちゃんとつじつまがあって、別に思いつきのでたらめなシーンではなかったというところも、いつものコーエン兄弟の作品と同じ。

映画を一言でいえば「変な話」っていうのも、いつものコーエン。出演している Jeff Bridges や John Goodman もみんな壊れかけていてよろしい。Steve Buscemi はほとんどストーリーには関係ないけど、やたら画面には出てしゃべりつづけるという役。しかし彼もこういう役をやらせると、ほんとうまいよなあ。Sam Elliott も渋いカウボーイ役で出てます。彼が語り部役。

しかし、一番恐いのはやっぱり、John Turturro でありました。もう画面に出てくるだけで映画変態度がいきなり上昇。ぴちぴちズボンは許すが、頼むからボーリングの球をスローモーションで舐めあげないでもらいたい。

まあ映画全体としては、あいかわらず凝った画面も多かったし、変な話でも何故かちょこっとは感動してしまうし、まったく退屈しませんでした。そう言えば、さっそくどっかのドレッシング(かな?)のテレビCMが<夢の中のボーリング>のシーンをパクっていましたね。恥ずかしくないか、おまえら。



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